BOX190 2005年10月19日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「十戒について」 T・Aさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Aさんのご質問です。Eメールでお便りをいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、はじめまして。わたしは聖書を読みはじめて、まだ日が浅い者です。それで質問なのですが、十戒について教えてください。

 今、旧約聖書から読みはじめて、出エジプト記に入りました。出エジプト記の20章に十戒というタイトルがついています。それで、これがあの有名な十戒なのだということが分かりました。しかし、読んでいて十の戒めをどう区分したらよいのか、ちょっと分かりづらいと思いました。確かに、形式段落を一つのまとまりと考えて『〜してはならない』『〜せよ』という言葉を数えてみると10の区分になっているので、おそらくそうなのだろうと思いました。

 そこで質問なのですが、20章のところについている『十戒』というタイトルは、おそらく後からつけたタイトルと思われます。聖書自身は十戒を何と呼んでいるのでしょうか。また、10の戒めの区別は、聖書に記されている形式段落ごとに区切って理解するとして、その場合、十戒の始まりは20章の3節からと考えてよいのでしょうか。

 もしそうだと考えて、『他に神があってはならない』という第一の戒めと、4節以下の『いかなる像も造ってはならない』ということと『それらに向かってひれ伏してはならない』ということが、第一の戒めとどう違うのか今ひとつよくわかりません。どれも本当の神以外を礼拝することを禁じている戒めに思えます。一と二の戒めの違いはなんでしょうか、説明をお願いします。

 それから、31章の18節を見ると、戒めを書いた二枚の石の板のことが書かれています。これは十戒を記した石の板と考えられますが、二枚であることに何か特別な意味があるのでしょうか。それは正副二枚の石板に十戒を刻んだということでしょうか。それとも、一枚に収まりきらない分量なので、二枚に分けて書いただけのことでしょうか。

 たくさんの質問で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。」

 T・Aさん、メールありがとうございました。T・Aさんは旧約聖書を最初から読まれているとのことですが、どうぞその調子で最後まで続けて読んでみてください。きっと。もっと聖書に対する理解と興味がわいてくると思います。

 さて、さっそくご質問にお答えしたいと思いますが、今T・Aさんが手にとっていらっしゃる聖書は、新共同訳聖書ではないかと思います。T・Aさんのおっしゃるとおり、出エジプト記20章の最初に太字で「十戒」というタイトルが記されているのは、現代の翻訳者がつけた便宜上のタイトルです。ですから、出エジプト記20章に「十戒」という言葉は一度も出てきません。しかし、聖書全体で「十戒」という言葉が出てこないかというと、そうではありません。申命記に二ヶ所、「十戒」と言う言葉が出てきます。申命記4章13節と10章4節の二箇所です。どちらも、もともとの意味は「十の言葉」という意味です。少なくとも聖書自身が十の区分をもうけていることは確かです。ただ、問題なのは、いったいどこで十の区切りをつけるかということです。

 T・Aさんの手にしていらっしゃるのは新共同訳聖書のようですから、一文字下がった形式段落に注意を払えば、簡単に十の区分を見つけ出せると思います。もっとも、これはあくまでも翻訳者がつけた段落ですから、すでに翻訳者の理解が反映されたものです。残念ながら、神の直筆であった最初の石板はモーセ自身が叩き割ってしまいましたので、どんな段落で十の戒めが区分されていたのかは今となっては誰も知ることはできません。おそらく、他の石碑と同じように段落など区分しないで、びっしりと文字が書かれていたのではないかと思います。

 ビックリされるかもしれませんが、十の区分と言うのは、案外多様性があります。ユダヤ教、ローマ・カトリック教会、それから改革派教会では、それぞれ区分の仕方が違っています。新共同訳聖書が採用している段落の区切り方は、実は伝統的な改革派教会が採用している区分の仕方です。ちなみにユダヤ教では20章の2節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言う部分を第一戒と数え、3節から6節までを第二戒と数えます。つまり、この数え方からすれば、T・Aさんが疑問に感じられた「他に神があってはならない」という第一の戒めと、4節以下の「いかなる像も造ってはならない」ということと「それらに向かってひれ伏してはならない」というこは、すべて第二戒にまとめられてしまいますから、違いがなくなってしまうことになります。このことについては、後でまた詳しくお話したいと思います。

 それから、ローマ・カトリック教会の伝統的な区分によれば、3節から6節までが一まとまりにされています。つまり、ユダヤ教の第二戒が、ローマカトリックの第一戒に当たるわけです。そして、その代わり、一番最後の17節を二つに分けて、九戒と十戒に区別します。

 さて、それぞれ伝統のあるユダヤ教とローマカトリックでは、新共同訳聖書が一戒と二戒に分けて考えている3節から6節をを一つの戒めとしてしまっています。しかし、改革派教会が採用してきた区分にはそれなりの論理があります。

 それは、3節に記された第一戒はただおひとりの神だけを神とすることが求められているのに対し、4節から6節に記された第二戒は、礼拝の方法について定めている戒めと考えるからです。つまり第二戒では真の神を礼拝する場合であっても、偶像など刻んだ像をもって礼拝してはならないのです。

 さて、最後になりましたが二枚の板に書かれた理由ですが、少なくとも出エジプト記32章15節によれば、二枚の石には裏にも表にも文字が書かれていたということは確かです。しかし、その二枚の区分、裏表の区分がどうなっていたのかについては、聖書には何も記されていません。

 ただ、伝統的には、一枚の板には神を愛することに関わる戒め、つまり一戒から四戒までが、もう一枚には隣人を愛することに関わる戒め、つまり五戒から最後までが記されていると理解されています。もっとも、その二枚の区分がどうなっているのかについては聖書に記されていないことですから、憶測に過ぎません。しかし、大き目の石板一枚に書き記すことができた物を、わざわざ二枚に書き記したのですから、何か二枚には意味のある区分があったとしてもおかしくはありません。

 T・Aさん、ぜひこれからも興味と関心をもって聖書を読みつづけてください。きっとT・Aにとってすばらしい心の糧になることと確信します。

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