キリストへの時間 2005年11月20日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「泥水のような心」

 おはようございます。山下正雄です。

 コップに泥と水をいれてかき回すと、水はたちまち全体が茶色に濁ってしまいます。しかし、しばらく放っておけば、泥はコップの底にたまって、水は向こう側が透けて見えるくらいにきれいになります。もちろん、きれいになったといってもそれは見かけの話です。ふたたび水をかき回せば、沈んだ泥が掻き立てられて、またもとの濁った汚い泥水に簡単に戻ってしまいます。もし、いつまでもきれいな水の状態を保ちたいならば、泥をろ過して取り除かなければ根本的な解決にはなりません。いくらコップをそっとしておいたとしても、それは見かけ上、透き通って見えるだけなのです。

 人間の心もこの泥水の入ったコップと似ています、何事もなければ、大抵の人の心はきれいな心です。向こう側が透けて見えるくらい純粋に見えます。けれども、泥のようなものが心に沈んでいる限り、何か事が起れば、たちまちその心は濁ってしまうのです。恨みを抱いたり、妬みで平常心を失ったり、欲と二つ連れになって、物事をまともに考えることができなくなったり、まさに心が乱れてしまうのです。もし、ほんとうにきれいな心のままでいたいならば、心の底にたまっている泥を取り除かなければ、根本的な解決にはなりません。いくら平静さを保ったとしても、泥がある限り、またいつかは簡単に濁ってしまうのです。

 聖書は人の心には罪という大きな泥の塊が潜んでいると教えています。この罪はコップの底に沈んだ泥のように、何事もなければだれもその存在に気がつきません。その澄んだ状態の心を見て、人の心はもともとはきれいなのだと勘違いしてしまいそうです。しかし、罪の存在に気がつかないだけで、実は罪は心全体を濁らせてしまうような汚い存在なのです。ちょっとしたことでたちまち心が揺らぎ、罪の本性が表れてしまうのです。悲しいかな、人間の心は澄んだり濁ったりの繰り返しです。どんなことがあっても心を揺らさない平静さが問題なのではありません。罪がある限り、根本的な清さは実現しないのです。

 いくら澄んでいるからといって、泥の入った水で満足する人はいないでしょう。それと同じで、いくら今は心が澄んでいるからといって、罪のあるままの心で満足していてはいけないのです。罪の潜んだ心では、いつか心は濁ってしまいます。

 神はこの罪を私たちの心から取り除くために、救い主イエス・キリストをこの世にお遣わし下さいました。ヨハネによる福音書にはこう記されています。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)

 ただ、この神のもとから遣わされた救い主イエス・キリストだけがわたしたちの罪を解決してくださるお方なのです。そして、わたしたちに求められていることは、この遣わされた救い主を信頼し、寄り頼むことです。キリストが罪の問題を解決してくださるのですから、私たちは身を委ねるだけなのです。

 キリスト教はそんなに難しいことを私たちに求めているのではありません。自分の心の中に沈んでいる罪に気がついて、そのお掃除をしていただくために、救い主のもとへと来るように、聖書は私たちを招いているのです。

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