聖書を開こう 2005年1月6日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 恵みと平和が(2テサロニケ1:1-2)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 新しい年を迎えて、早6日がたちました。この一週間ほどの間、どんなことを考えながら過ごされたでしょうか。わたしは一人のクリスチャンとして、また、一人の伝道者として、この日本におけるキリスト教のことを考えました。16世紀に初めて日本に伝来したキリスト教は、瞬く間に信徒を獲得していきました。けれども、半世紀ほどのうちにキリスト教が禁止され、激しい迫害の中で、その成長はほとんど途絶えてしまいました。今度は江戸時代から明治へと時代が変わり、再びキリスト教が日本に入ってくると、またしても大きな成長を遂げました。しかしまた半世紀をこえると、教会は難しい問題に直面しました。とくに戦争の激化とともに、自由な礼拝を守ることは困難になり、迫害される教会も出て来ました。

 やがて戦争が終わり、新しい憲法が制定されると、再び教会は勢いよく成長し始めました。しかし、過去の歴史と同じように、半世紀を越えたあたりから教会は勢いを失いつつあるように思われます。ただ、今までと違うのは、外部からの圧力や弾圧によって成長に歯止めがかけられたと言うよりは、内側からその力を失っているようにも感じられます。

 教会の存在が外部からの抵抗にあうということは、それ自体嬉しいことではありません。しかし、見方を変えれば、激しい抵抗や弾圧を受けるほどに、教会の存在がこの世にとって脅威を与えていると言うことの証でもあります。もし、そういう意味での教会の存在感がこの世に対して失われているのだとしたら、それはとても寂しいものだと思います。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、新約聖書の中にある手紙を読んでいると、しばしば、迫害や激しい抵抗に直面した教会の状況が描かれています。きょうから新しく取り上げようとしているテサロニケの信徒への手紙二に描かれる教会は、正に外部からの抵抗や迫害に直面している教会です。今の時代を生きるわたしたちが、この手紙を一体どれほどの共感をもって読むことができるのか、難しいかもしれません。しかし、具体的な政府や共同体からの抵抗や弾圧ということが鮮明ではないというのが今の日本の教会の事情であるとしても、得体の知れない抵抗と戦っている日本の教会にとって、やはり意義のある手紙ではないかと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 1章1節と2節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 きょうからテサロニケの信徒への手紙二の学びに入ります。同じ名前の手紙の「一」は既に学びました。「二」というのですから、当然「一」の続きか、少なくとも同じ著者によって「一」の手紙よりも後に書かれた同じシリーズの手紙と考えるのが自然でしょう。実際、コリントの信徒への二つの手紙は、大雑把に言って、そういう前後して書かれた同じ著者による手紙です。

 では、テサロニケの信徒への手紙はどうなのか、というと、判断しなければならないたくさんの要素があって、単純には答えが出せません。もちろん、単純に読めば、冒頭の書き出しは二つの手紙の間で、ほとんど一字一句同じです。少なくとも差出人の名前は、二つの手紙ともパウロ、シルワノ、テモテ以外の誰でもありません。これ以上難しい問題に首を突っ込んで、肝心の手紙の中身を見失うのは賢いとは思えません。この手紙の著者が誰であるのか、という興味をそそられる問題に足をあまり引っ張られないように、先へ急ぐことにしたいと思います。

 とは言うものの、一つの興味ある特色だけを紹介しておきたいと思います。それは、一方で二つの手紙は書き方や用語が非常に似ているのですが、他方で、主題が前の手紙とは大きく違っていたり、二つの手紙が比較的同じ時期に書かれたとはどうしても思えない個所が出てくるということです。そのことについては、それぞれの個所で触れたいと思います。

 さて、きょう取り上げるのは手紙の冒頭部分です。パウロの手紙はほとんどどの手紙でもそうですが、当時の手紙の書き方にのっとって記されています。差出人、宛先、そして短い挨拶の言葉です。差出人は時として、ただ名前を記すだけではなくて、自分がどういう者であるのか、称号を記す場合もあります。先ほども少し触れましたが、第一の手紙と第二の手紙では全く同じです。パウロ、シルワノ、テモテが差出人として名前が挙げられています。「使徒」とか「キリスト・イエスの僕」といった称号や修飾の言葉は一切ありません。宛先に関しても、一字一句ではありませんが、ほとんど第一の手紙そのままです。ただ「わたしたちの」と言う言葉が入るかはいらないかの些細な違いです。

 「わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。」

 さらに、挨拶の言葉も「恵みと平和」を願う点で第一の手紙と全く同じです。同じパウロが書いた手紙の挨拶の言葉と比べると、第一の手紙が手短に「恵みと平和があなたがたにあるように」と手短に祈るのに対して、第二の手紙をはじめその他のパウロの手紙のほとんどは、誰からの恵みと平和なのかを記しています。つまり、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」…そのように願っています。もっとも、これは本質的な違いではありません。

 こうして、冒頭部部に関しては第一の手紙とほとんど全く同じ書き出しです。そして、それはパウロのどの手紙の書き出しとも似ているわけです。そういう意味ではきょう取り上げる手紙の冒頭部分はただの形式的な書き出しと言ってしまえばそれまでです。しかし、パウロが挨拶の言葉として述べる「恵み」や「平和」がそんなに形式的で軽いものかと言うと決してそうなのではありません。

 テサロニケの信徒への第二の手紙では、手紙の結びにも「平和」と「恵み」が出てきます。特に「平和」に関しては、「平和の主御自身が…平和をお与えくださるように」と冗長な言い方をしています。けれども、これから学ぶように、この教会が直面している苦しみや迫害のことを思うと、最初と最後に「平和」という言葉が登場したり、「平和の主が…平和を」というくどい言い方をしたりするのも、深くうなずけることです。

 ただの挨拶の言葉として「平和」を願うのではなく、心から平和を願い、平和を祈るクリスチャンの共同体でありたいと願います。

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