BOX190 2006年2月15日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「神様って不公平じゃないですか?」 栃木県 M・Kさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は栃木県にお住まいのM・Kさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生。わたしはまだ聖書を読み始めたばかりですが、読んでいて、いろいろと腑に落ちない点があって、なかなか先へ進むことができません。たとえば、具体的な個所ですが、マタイによる福音書の20章に「ぶどう園の労働者のたとえ話」が出てきます。その譬え話によれば、後から来てほんのわずかな時間しか働かなかった人も、最初から辛い労働をずっとしてきた人も、同じ賃金がいただけるというのです。確かにわたしが後から雇われた労働者なら、嬉しいと思います。しかし、最初から働いていた人のことを思うと、やっぱり不公平な気がします。

 そこで質問ですが、この譬え話は、いったい何を教えようとしているのでしょうか。このままだと、何だか後からゆっくり信じた人の方が得な気がしてしまいます。

 よろしくお願いします。」

 M・Kさん、メールありがとうございました。確かにイエス・キリストがお話ししてくださった譬え話の中にはとってもユニークなお話がたくさんあると思います。今月初めにこの番組で取り上げた『不正な管理人の譬え』もその一つだと思います。わざわざ、そのようなユニークなお話をするのには、「この話は何だろう?」と、聴く者の関心を引くためのテクニックなのかもしれません。当たり前の話では、印象に残らなくて、右の耳から左の耳へ抜けてしまいます。そういう意味では、M・Kさんの関心をしっかりと掴んだイエス様のお話はすごいと思います。

 さて、話を本題に戻しますが、きょう話題になっている「ぶどう園の労働者のたとえ話」をご存知ない方のために、少しだけ簡単に粗筋をご紹介します。

 あるときぶどう園の主人が、労働者を雇うために出かけて行ったというのです。明け方ごろ、1日に1デナリオンという約束で人を雇います。9時ごろ同じように、1日1デナリオンで人を雇います。さらに12時と3時と5時頃にも同じように人を雇ったというのです。さて、夕方になって1日の賃金を支払う時に、このぶどう園の主人は、後から来た者にも、最初から来た者にも1デナリオンを支払ったというお話です。もちろん、最初から働いていた者たちからは不平の声があがります。それに対してこのぶどう園の主人はこう答えたというのです。

 「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」

 これが譬え話の粗筋です。譬え話の中に登場する日雇い労働者からも、この主人のやり方は納得がいかないと不平が出るくらいですから、この主人のやり方は、その当時の常識から考えても、ふつうの主人のやり方ではなかったのかもしれません。

 では、なぜそんなぶどう園の主人の話をイエス・キリストは持ち出されたのでしょうか。そもそも、この譬え話は何を言おうとしているのでしょうか。

 この譬え話に登場する労働者たちは、別にこの主人に雇われなくても、他で働いて賃金を稼げるような人たちではありません。きょう職を得なければ、きょうの稼ぎに当てのない人たちです。たまたま、明け方頃にこの主人に雇われた人たちは、自分たちは幸運だったと思ったことでしょう。他方、5時まで雇われなかった者たちにとっては、このご主人に雇ってもらわなければ、きょうの稼ぎはまるで期待できない一日だったのです。では、最初に雇われた人たちと、最後に雇われた人たちはの違いはどこにあったのでしょうか。最初に雇われた人たちはどこか特別な能力でもあったのでしょうか。そうではありません。たまたま早く雇ってもらえたに過ぎないのです。自分たちの方が最後まで雇ってもらえない可能性だってあったはずなのです。そして、最初に雇われた者たちも最後に雇われた者たちも、同じ金額の賃金を手にすることができたのは、まったくこのぶどう園の主人の親切心と気前のよさによるのです。

 つまり、この譬え話を読むときに大切なのは、このぶどう園の主人に着目しなければならないのです。

 この譬え話が語られた背景は明らかです。早い時期から神を信じ、神の国の一員として自覚があったユダヤ人、とくに律法学者やファリサイ派の人々に向けられてこの譬え話は語られているようです。彼らは、神からいただく救いを自分たちに対する当然の報酬と考えています。それに対して、罪人や異邦人が救いを手にすることは、彼らにはおおよそ考えられないことと受け止められているのです。

 早くから神を信じ、神のために働いてきた自分たちこそが救いを当然の報酬としてうけ取ることができると思っているのです。もし、罪人や異邦人が救われるのなら、自分たちへの報いはそれ以上でなければ、納得できないと考えているのです。

 しかし、イエス・キリストはこの譬え話を通して、そういう期待がまったく間違った誤解から出てきていることを指摘しているのです。

 人は救いを当然の報酬として受け取っているのではないのです。ぶどう園の主人が憐み深く、親切であったように、神は憐み深く親切なお方なのです。救いを必要としている者たちに、ただ全くの好意で十分な救いを与えて下さっているのです。

 この譬え話の真理は重要です。神は救いをそのように人々に与えようとなさっていらっしゃるのです。たとえわずかしか働かなかったとして、いいかえれば、たとえ後から信仰を持つようになったとしても、神は、満額を支払ってくださる主人のように、救いの恵みを必要十分にすべての人に与えてくださるのです。その神の憐みふかさ、その神の親切さを無駄に受け止めてはいけないのです、

 わたしたちはついつい、自分が救われるのは当然だと思ってしまいがちです。しかし、そののんきな甘い考えそのものが、イエス・キリストが語ってくださるこの譬え話によって正されているのです。人はみな、神の憐みと全くのご好意によってだけ、救いを手にすることができるのです。そのことをイエス・キリストはこの譬え話を通して教えてくださっているのです。

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