BOX190 2006年4月5日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「ペトロとユダの違いは?」 ハンドルネーム・ぬかふくさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドル・ネームぬかふくさんからのご質問です。携帯からのメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「BOX190のファンで、ずっと学ばせて頂いていますが、今回初めて質問させて頂きます。

 ペトロのイエスへの裏切り、つまり彼を三度『知らない』と言ったことについてですが、私から見て、ユダが犯した裏切りと罪の重さに大差ないように思えるのです。それでもユダは、その後悔い改めた(反省した?)のにもかかわらず二千年の後までも裏切り者の代名詞の汚名をきて、方やペトロは初代ローマ法王の地位についています。この差はなんなのでしょうか。」

 ぬかふくさん、メールありがとうございました。番組のファンとのお言葉嬉しく思いました。

 さて、今までにもこの番組の中で裏切り者のユダについては何度か取り上げたような気がします。確かにユダについての興味には尽きないものがあります。「ユダの裏切りは神の計画の中に含まれるのか」といったものから、「果たして最終的にユダは救いの中に加えられるのか」といったものまで、色々な疑問が裏切り者のユダについては寄せられています。

 それに対して、ペトロについての疑問というのは、この番組でもあまり取り上げられてことがないように思います。ペトロは失敗の多い弟子ですが、それでも十二弟子の中心的な存在として、新約聖書に中は描かれています。ぬかふくさんのおっしゃる通り、ペトロが大祭司の庭で問い詰められて、イエスとの関係を三度も否定した罪と、イエスを祭司長たちに引き渡す手伝いをした罪と五十歩百歩のような気がします。それにも関わらず、十二人の弟子たちを紹介するリストに、ユダだけには「後に裏切り者となったイスカリオテのユダ」(ルカ6:16)というレッテルがわざわざ記されています。ペトロのことを「後にイエスを否定してしまったペトロ」とは決して紹介されることはありません。ご質問の通り、この違いはどこからくるのでしょうか。

 考えるヒントとして、ぬかふくさんのメールには「ユダは、その後悔い改めた(反省した?)のにもかかわらず」とありました。まずは、その辺のところからみてみたいと思います。

 イエスを裏切ったユダがその後どうしたのかということを一番詳しく記しているのは、マタイによる福音書です。マタイ福音書の27章によれば「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言ったとあります。

 先ず第一にユダは自分がしたことを後悔しました。そして第二に、祭司長たちのところへ行って、自分の罪を告白しました。確かにユダがイエスを裏切って引き渡してしまったことは、浅はかな行為でした。浅はかな軽はずみの行為だったのか、熟慮の末にしたことだったのかそのあたりははっきりしませんが、とにかくユダは自分がしたことの愚かさに気がついたのです。そして、それが罪であったということも自覚していたのです。その点はユダも決してとことん悪人ではありませんでした。

 しかし、ユダが本当の意味で自分の罪の重さを自覚し、罪を悔い改めていたのかというと、そうとも言い切れないのです。

 マタイによる福音書によれば、その直後、ユダは首をつって死んでしまいます。日本人的感覚からすれば、自らの死をもって罪を償ったことになるのでしょう。しかし、聖書の世界ではそうではないのです。そもそも、人間の罪は死んでお詫びをしたぐらいではぬぐいきれるものではないというのが聖書の教えです。イエス・キリストの十字架の死だけが罪を償い、罪を贖うことができるのです。

 ユダの取った行動はそういう意味で、思慮が浅かったのです。自分の罪を自分で何とかできると思うこと自体が、大それた思い上がりです。

 もちろん、ユダにはそんな思い上がった気持ちなどなかったかもしれません。自分の罪があまりにも大きくて、自分はもはや生きるに価しないと思ったのかもしれません。しかし、最後の審判を下すのは人間ではなく神ご自身です。人間の犯す罪でもっとも愚かな罪は、神の裁きに先立って自分自身を裁いてしまい、自分自身を神の恵みと憐みから締め出してしまうことです。ユダは確かに神の義が持つ恐ろしさを感じていたのでしょう。しかし、自分の命を絶つことで、神の恵みと憐みからも自分を永遠に遠ざけてしまったことは愚かとしかいいようがありません。

 では、ペトロはどうだったのでしょうか。犯した罪はユダと五十歩百歩です。ペトロは事が起るずっと前に、イエス・キリストからこんな教えを学んでいたのです。

 「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイ10:33)

 そのことを承知のはずのペトロが、人々の前でイエス・キリストを知らないと言ったのです。しかも、一度ならず三度も否定しました。さらにペトロがそのようにキリストとの関係を否定する直前にも、イエス・キリストご自身から、警告を受けているのです(マルコ14:27以下)。

 そう考えると、ペトロの罪もユダの罪もほんとうに大差ないのではないかと思いたくなってしまいます。確かに神の御前には大差がないのかもしれません。

 しかし、ペトロとユダの大きな違いは、犯した罪そのものにあるのではなく、その後の態度と行動にあるのです。ペトロも自分のしてしまったことを後悔して激しく泣きじゃくります(マルコ14:72)。そこまではユダとそんなに大きな違いはありません。問題はその後です。

 ペトロは決して自分を自分で見限ってしまうようなことはありませんでした。それは自分を過大評価していたからではありません。そうではなく神に成り代わって自分をさばこうとしなかったのです。さらに、自分で自分を見限ることによって、神の恵みを自ら受け取れなくなるようなことをしなかったのです。

 本当に自分の罪が大きすぎて、自分で自分を救えないと思うのなら、恥じも外聞もすべてを投げ打って、神の恵みと憐みの中に飛び込むより他はないのです。ペトロのその後の生涯は、ただ神の恵みに自分自身を委ねる生涯でした。その生涯を通して、ペトロは神の愛を知り、救いに与ることができたのです。この点こそがユダとの大きな違いだとわたしは思います。

 ですから、本当に自分の罪の重さを自覚しているのでしたら、決して自分で自分を裁いてしまうのではなく、神の恵みと憐みに是非とも自分自身を委ねていただきたいとすべての人に願っています。

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