BOX190 2006年4月26日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「どうして祈る必要がありますか」

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はM・Kさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しみに聴いています。早速の質問ですが、お祈りについての疑問にお答えいただければ嬉しく思います。

 その疑問というのは、マタイによる福音書に記されたイエス様の言葉です。イエス様は、『祈る時には異邦人のようにくどくどと祈るな』とおっしゃいました。それは『天の父なる神様は、願う前から、わたしたちに必要なものをご存じだからだ』と言う理由です。

 素朴な疑問なのですが、それではなぜわたしたちは祈る必要があるのでしょうか。何をどう祈るべきなのか、教えていただきたいと思います。よろしくお願いします。」

 M・Kさん、メールありがとうございました。いつも番組を聴いてくださり、ありがとうございます。お祈りについてのご質問は、この番組でも以前に何度か取り上げたことがあると思います。祈ることは信仰生活にとってとても大切なことがらですから、ことあるごとに祈ることについての理解を深めることは大切なことだと思います。

 さて、ご質問の中にでてきたイエス・キリストの教えですが、マタイによる福音書6章5節以下にでてくる、祈りについてのイエス様の一連の教えの中に出てくる言葉です。

 イエス・キリストは祈る時には偽善者のようであってはならないと教えられた後で、同じように、祈る時には異邦人のようであってはならないということを教えられました。

 では、イエス・キリストが問題にされた「異邦人のような祈り」とはどんな祈りでしょうか。それは「くどくどと述べる祈り」「言葉数の多い祈り」です。誤解してはいけないのですが、キリストはただくどくどと言葉数が多い祈りを、すべていけないといっているわけではありません。問題なのは言葉数が多ければ多いほど、聞き入れられると思う祈りの姿勢なのです。

 つまり、異邦人の祈りの背景にあるものは、いかに神を上手に説得して、自分たちの願いを聞き上げてもらうのか、という祈りに対する理解や姿勢なのです。当然、そういう祈りの姿勢の背後には、神に対する信頼の薄さがあります。つまり、人間が必要を訴えない限り、神は人間に対して無関心であったり、わざと意地悪をして見て見ぬふりをしたり、そういうお方なのだという神に対する信頼の薄さがあるのです。神をそのようなお方と捉える人々にとっては、祈りというものは神を説得するための手段でしかないのです。

 それに対して、イエス・キリストにとっては、神はわたしたちの必要を誰よりもよくご存知のお方なのです。ですから誰よりも信頼するに値するお方なのです。もしそうだとすれば、M・Kさんのご質問にありましたように、何故祈る必要があるのか、という疑問が出てくるのも頷けます。

 しかし、よくよく考えてみると、神はわたしたちの必要をよくご存知だとしても、わたしたちの方は、自分の本当の必要すら実はよく分かっていない存在なのです。ちょうど小さな子どもが、「あれが欲しい、これが欲しい」というのに似ています。自分の子どもを愛する親ならば、子ども言いなりになるのではなく、本当に必要な物を与えるのが当然です。しかし、だからといって、自分の子どもに、「何も言わずに一生黙っていなさい。必要な物は全部上げるから」という親はいないでしょう。むしろ、トンチンカンな要求をする子どもの声に耳を傾け、何が本当に必要なのかをそういうやり取りの中で教えるのが親です。

 天の父なる神も、ただ、黙って必要なものを与えてくださるお方なのではありません。わたしたちがわたしたちのほんとうの必要を理解できるようにと、何であれ祈り求めることを許していてくださっているのです。言い換えれば、もし、わたしたちが祈らないとすれば、わたしたちは自分の本当の必要に気がつくこともなく、また、神の御心について知ることもできないのです。

 御心を求めるといっても、わたしたちは最初からそれがわかっているわけではありません。あるいは、自分の必要を祈り求めるといっても、最初からそれが明らかなのではありません。それを教えていただくために祈るのです。

 ですから、祈りに対する姿勢は異邦人の祈りと根本的に違っています。イエス・キリストが教える祈りは、神を説得するための祈りなのではなく、むしろ、わたしたちに神のみ心がどこにあるのかを謙虚に尋ねさせる祈りなのです。

 もちろん、それは何を祈ってもよい祈りです。自分の健康のことでも、家族の幸せのためでも祈ってよいのです。しかし、その祈りの姿勢は、天の父なる神がどのようにその祈りに応え、わたしたちの本当の必要を教えてくださるのか、謙虚に耳を傾ける姿勢で祈ることが大切なのです。

 新約聖書の中にある手紙をほとんど書いたパウロは、コリントの信徒に宛てた手紙の中で、こんなことを書いています。

 実は、パウロにはサタンが送ったといわれるとげがありました。具体的にそのとげがどんなものであったのかは分かりませんが、パウロはそのとげを取り去ってくださるようにと神に祈りました。確かにそのとげさえなければ、もっとキリストのために働くことができたでしょう。誰がどう考えても、その願いはただパウロの個人的な利益のための願いではありませんでした。パウロ一人の必要というばかりか、キリスト教の進展にとっても必要と思われることでした。

 しかし、神がパウロに与えた答えはこうでした。

 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

 パウロはこの言葉を通して本当の自分の必要を知ったのでした。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と今まで以上にキリストのために力強く働くことができるようになったのです。神は祈りを通してそのようにわたしたちが御心を学ぶことを望んでいらっしゃるのです。だからこそ、わたしたちに必要なものをご存知である神に祈る必要があるのです。

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