BOX190 2006年7月5日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「イエスの教えは素晴らしいのですが…」 大阪府 Y・Sさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大阪府にお住まいのY・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、はじめまして。番組をいつも家内と一緒に聴いています。
 わたしはまだクリスチャンではありませんが、家内が先に洗礼を受け、教会への送り迎えもあり、ときどき教会にも顔を出している程度の者です。やがては、家内と同じ信仰を持つようになるのだと、自分でもなんとはなくに思っています。別にキリスト教に対して反感もなければ、キリスト教に強く反対しなければならない理由もありません。それどころか、聖書を読んでいて、イエス・キリストの教えには深く同調するものを感じます。
 ただ、一つ、信仰に入るに当たって、自分に二の足を踏ませるのは、聖書に記されたキリストの奇跡や復活の話です。これを信じることはクリスチャンにとって必須なのでしょうか。わたしにはどうしても理解できないことですし、それが信仰生活とどう結びつくのか、わかりません。もちろん、人間が克服しなければならない死の問題や罪の問題については分かります。しかし、奇跡を信じることが何故必要なのか、自分の理性的な判断を抑えてまでもそれをしんじなければならない何か特別な理由でもあるのでしょうか。
 くりかえしになりますが、わたしはキリストの教えを素晴らしいものと思っていますし、それららの教えには、今すぐにでも従いたいと思っています。
 どうぞよろしくお願いします。」

 Y・Sさん、お便りありがとうございました。奥様とご一緒にラジオを聞いたり、教会へ足を運んでいらっしゃるとのこと、本当に素晴らしいことと思いました。そして、こうして聖書のことやキリスト教のことについて関心を持っていらっしゃるご様子を知って、とても嬉しく思います。

 お便りを読ませていただいて、信仰とは何か、信じるとはどういうことなのか、ということを改めて思いました。聖書に書かれてあることが本当であると信じることは、クリスチャンにとってとても大切なことだということは、言うまでもないことです。そもそも聖書を疑いはじめるなら、信仰を持つことなどできなくなってしまいます。けれども、聖書の中に書かれていることが、みな本当のことだと信じるということは、歴史の教科書に書いてあることがみな本当におこったことだと丸暗記するのと同じことではありません。いえ、歴史の教科書でさえ、そこに書かれていることを丸暗記することが歴史を学ぶということではないのです。

 聖書に記された奇跡に関する話で大切なのは、それが起ったか起らなかったか。もし、それが起ったとするなら、信じるためにどんな証拠を挙げることができるのか。…そういう問題ではないのです。それが起こったという信じる証拠を挙げようとするからこそ、話が余計にややこしくなってしまうのです。
 聖書を読むときに大切なことは、起ったとされる奇跡が、一体何のために行なわれたのか。そこがまず出発点となるべきなのです。そのような奇跡をとおして、神がどのようなメッセージをわたしたちに知らせようとしているのか、そのことを聖書から読み取ることが大切なのです。言い換えるならば。そのような業を通して神の愛がどのように表されているかという問題です。それを先ず初めに見出すことから出発しないならば、いつまでたっても、信仰を持つことはできません。
 この肝心かなめのメッセージさえ聞き取ることができるなら、奇跡に対する証拠はそれほど大きな意味を持たなくなることでしょう。超自然的な出来事ではあっても、そこに神の愛の必然性があったのだと信じるようになるとき、奇跡というものを自然に受け容れることができるようになるのです。

 例えば、キリストの復活ということを例に挙げて考えてみましょう。亡くなった人が生き返るということはそれほど珍しいことではありません。呼吸がとまり、心臓も止まってしまった人が、何かの弾みで息を吹き返すということは実際に起ったこととして他の事例でも報告されています。しかし、聖書に書かれてあるキリストの埋葬の記事を読んでいると、キリストの復活が単なる息を吹き返した蘇生とは明らかに違うことが分かります。後にも先にも例を見ない甦りなのです。
 後にも先にも例がないことですから、そういうことが起りえるのかどうかという議論そのもの意味をなしません。後にも先にも起らないことなので、信じられないというのはもっともなことです。逆にキリストの復活が普通の蘇生と同じであれば、キリストの復活はもっと簡単信じられたのでしょうか。確かも受け容れやすかったかもしれません。しかし、それではキリストの復活には何の意味もなくなってしまいます。
 パウロによれば、キリストは「死者の中から初穂として甦ったのです」。それは死に打ち勝って、永遠の命をキリストが回復してくださったことを示すものです。そいして、そこには愛する独り子であるイエスを賜ったほどにこの世を愛される神の愛が示されているのです。この世を救おうとする神の愛という視点から復活をみるならば、イエスの復活はまさに神の愛の必然だったのです。神の愛を知らないならば、また、神の愛を受け容れないならば、おそらく、復活をも受け容れることは難しいでしょう。

 つまり、信仰を持つために復活を初めとする様々な奇跡を鵜呑みにすることが必要なのではなく、神に対する心からの信頼を持つときにこそ、神のなさることの中に神の愛の必然性を見出すことができるようになるのです。
 ですから、Y・Sさんにとって、今一番大切なことは、理性を犠牲にして奇跡を信じることではなく、まず、聖書の中に示されている、人類に対する神の愛を読み取り、それを受け容れてみてください。いったん神の愛をうけいれるならば、きっと奇跡や復活についても、それをわたしたちへの神の愛として自然に受け取ることができるようになるはずです。

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