BOX190 2006年8月9日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: なぜ裏切りのレッテルを? 高知県 Tさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は高知県にお住まいのTさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「最近読んだ記事に『ユダの裏切りはキリストの指示』と言うものがありました。とても不思議な感じでした。よく考えてみると、なぜ皆がみんな『裏切り』のレッテルを貼ったのでしょう」

 Tさん、お便りありがとうございました。福音書を読んでいて、おそらく一番不思議に思われることの一つが、このユダの裏切りのことではないかと思います。これはいろいろな関心から言って、人間にとって興味が尽きない問題であると思います。先ず一つには、神が全知全能のお方であるとするならば、なぜ、神はユダがキリストを裏切ることをお許しになったのかという疑問が湧いてきます。そうすると、当然そこにはユダの裏切りは、結局は神の計画の中にあるのだから、ユダの罪は許されるべきではないかと言う疑問が付随してきます。あるいは、逆に、神はユダの裏切りを予知できなかったか、あるいは予知できても阻止することができないほどの力しかなかったのではないか、という、あらぬ方向への議論の展開も起りえます。
 あるいはまた、ユダの裏切りは、人間の弱さから出たものであるとすれば、わたしもまたユダと同じような裏切りをしないという保証はないのではないかという恐れに似た疑問も湧いてきます。  さらには、なぜ、キリストを三度知らないと言ったペトロは赦され、ユダは後々の時代までも裏切り者のレッテルを貼られたままなのかという疑問も起ってきます。  そういう意味で、ユダの裏切りの事件はあらゆる人々の関心をひきつける事件であったと言うことができると思います。

 さて、Tさんからのお便りにそって、一つ一つ考えてみたいと思います。先ずはじめに、お便りの中に出てきた「最近読んだ記事に『ユダの裏切りはキリストの指示』と言うものがありました。」という部分ですが、残念ながらそれがどこに書かれていた記事なのか詳しくは分かりませんので、コメントのしようがありません。ただ、そういう考えの出所となるような記事が聖書にあるとすれば、あそこかもしれないという心当たりはないではありません。それは、最後の晩餐の様子を描いたヨハネによる福音書13章に記されたキリストの言葉です。ヨハネによる福音書13章27節に、キリストはユダに対してパン切れを与えながら「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と命じています。その少し前の文脈から明らかなとおり、これはご自分を裏切ろうとしている者に対するキリストの言葉です。つまり、キリストは最後の晩餐の席上で、弟子たちにこうおっしゃったのです。

 「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

 こうキリストから言われた弟子たちは、「いったい誰のことを言っているのだろうか」と困惑した様子が続いて記されます。そして、弟子の一人が、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられたのです。そして、先ほど紹介したとおり、キリストはユダにパン切れを渡しながら、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とおっしゃったのです。

 このキリストの言葉はTさんも書かれているとおり、「不思議な感じ」です。おそらく限られた知識しかない私たちにはこのキリストの行動と言葉は永遠の謎かも知れません。確実に言えることは、確かにキリストはユダがご自分を裏切ることを知っていらっしゃったと言うこと、そして、それが誰であるかを弟子たちに示そうとされたことです。もっとも、二つばかりコメントしておかなければいけないことがあります。その一つは、これだけはっきりと分かるようにキリストはパン切れをユダに与え、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とおっしゃったにもかかわらず、他の弟子たちにはそれが何を言っているのか分からなかったということです。ヨハネ福音書によれば、ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」と思い、別の弟子は、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた、と言うことでした。

 考えても見れば、イエス・キリストがおっしゃったことは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」ということでしたので、それは「裏切りなさい」と言う意味にも取れますし、また逆に「思いとどまろうと迷っているのなら、思いとどまりなさい」といっているようにも取れます。それはユダの聞き方次第でどちらにも理解できたはずです。

 もう一つコメントしておかなければならない点というのは、このことと無関係ではありません。ヨハネ福音書の13章はその冒頭部分で「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」ということを記しています。もちろん、この弟子には裏切り者のユダも含まれています。つまり、イエスはユダをも愛し抜かれ、いつでも裏切ることを自分から放棄する道を与えていらっしゃったのです。イエス・キリストは必ずしも積極的にユダの裏切りを望んでいたとはいえないのです。

 もちろん、これらのことは神の深いご計画とご配慮のうちに実現したことですから、人間の限られた知識ではその全体を捉え尽くすことも評価することもできないことでしょう。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、ご質問の「なぜ皆がみんな『裏切り』のレッテルを貼ったのでしょう」という点ですが、確かに福音書の中ではユダが紹介されるときには必ずと言っていいほど、「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」とか「裏切り者となったイスカリオテのユダ」などと、「裏切り者」というレッテルがユダには貼られています。もうほとんどこの呼び方は早い時期から定着してしまっているという印象です。
 しかし、一箇所だけ興味深い個所があります。それは使徒言行録1章に記された、いわば十二使徒の補欠選挙とでも言う場面です。このときペトロはユダのことを「裏切り者」とは呼ばずに「手引きをした者」と呼び、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」とユダのことを伝えています。
 確かに、ユダは自分の行動の責任をまぬかれることはできません。しかし、同じ弟子仲間のペトロがユダを呼ぶときに「裏切り者」というレッテルを貼らずに呼んでいることに興味を覚えます。「なぜ皆がみんな『裏切り』のレッテルを貼ったのでしょう」という疑問の答えにはなっていませんが、興味深い記述であると思いました。このペトロの発言から福音書が書き下ろされるまでの30年程の間に、「裏切り者」というレッテルが定着化していったのでしょう。

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