BOX190 2006年10月11日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 主の名をみだりに唱えるとは? 埼玉県 M・Aさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいM・Aのさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「前略 先生のCD『神の僕モーセ』をお聴きしました。その中でモーセの十戒を取上げていましたが、『わたしの名をみだりに唱えてはならない』という十戒の言葉に耳をひかれました。
 わたしは大きな罪を犯しました。それで次から次へと問題が起きてきます。わたしは絶えず『イエス様助けてください』と祈っています。声を出して、また小声でまた大声で祈ります。もしかしてわたしは『みだりに唱えている』のではないでしょうか。どうぞ答えてください。」

 M・Aさんメールありがとうございました。モーセの生涯についてのCDをお聴きくださってありがとうございます。あのCDの中では、聖書に記されたモーセの十戒をそのまま朗読させていただきました。何よりも聖書の言葉そのものに触れていただきたいと思ったからです。「十戒」と言う言葉を知っていても、その内容をまだ知らない方たちのために、先ずは何のコメントも加えずに、書かれている通りにそのまま読みました。そんな中で、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の第三戒に、M・Aさんの耳が止まったことはある意味でよいきっかけであったと思います。もちろん、この十戒の言葉がM・Aさんにとっては不安の材料になってしまっているということは、お便りからうかがい知ることができます。しかし、そうであればこそ、この十戒の第三戒をもう一度正しく理解し、自分自身の信仰生活のあり方を検討する良いチャンスとなったのではないかと思います。

 さて、わたしたちがモーセの十戒を学ぶ目的と言うのはいったいどこにあるのでしょうか。まず一つには十戒を通してわたしたちの罪の姿が明らかになるということがあるでしょう。十戒は神に喜ばれる人間の正しいあり方を示していると同時に、その鏡に自分の姿を映し出した時に、いかに自分の姿が神の求めていらっしゃる姿から外れたものであるかを知らされます。そういう意味では十戒に照らして自分の姿を直視することは、誰にとっても心地よいものではありません。
 ここで重要なことは、神が人間に十戒を与えたのは、確かに罪の悲惨さの中にある現実の人間の姿を写し出すためであるということもあるのですが、それと同時に、神は人間の罪を解決するために救い主イエス・キリストをも用意してくださっているという事実を忘れてはなりません。つまり、神は人間が自分の罪深い姿を知ってただ絶望することを望んでいらっしゃるのではなく、イエス・キリストのうちにある豊かな赦しと救いの恵みに与ることを望んでいらっしゃるのです。

 それから、十戒を学ぶもう一つの大切な目的は、神に造られた人間として、神の御心にふさわしく生きるということです。もちろん、そのままの人間では十戒に触れるたびに罪の姿を示されるわけですから、いつまでたっても一番目の目的へ戻ってしまいます。ですから、十戒を意味あるものとして学ぶには、どうしてもキリストの救いが前提となります。キリストによって救われた今、どう神のみ心に従って生きるのか、そのことを十戒によっていつも教えられるのです。救われるために何かをするのではなく、救っていただいたからこそ、その感謝の気持ちをどのように神の御心に沿って表していくのかという問題です。

 以上の二つのことは十戒を学ぶ上で決して忘れてはならない事柄です。そうでなければ、十戒を学んだとしても、ただ罪の自覚が増すだけで終わってしまうからです。きょうM・Aさんのご質問を取上げたのは、ただ十戒の学びがM・Aさんを苦しませるためではありません。むしろ何よりも神のうちにある豊かな恵みへと十戒の学びがM・Aさんを導いて行くようにと願っています。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、学びの目的をはっきりさせた上で、ご質問に答えていきたいと思います。
 まず、第三戒が禁じている事柄は主の名をみだりに唱える行為です。「みだりに」というのは、たとえば最初から誓いを果たすつもりがないのに、「神の名に誓って」などと神をむやみに自分の都合で引っ張り出してくることです。それは、ただ単にその場を逃れるために神を利用したに過ぎないのです。神はそのような目的のためにご自分の名が用いられることを嫌っていらっしゃいます。なぜなら、それを許可してしまえば、ご自分も偽りに荷担したことになってしまうからです。
 あるいはおよそ敬虔な思いとはかけ離れた仕方で、冗談や冒涜のために神の名を用いることです。
 逆に第三戒が求めていることは、神の名を清く敬虔に用いるということです。心から神の名を呼び求めること、祈ること、礼拝を捧げることなどは積極的にこの第三の戒めが求めている事柄です。ですから、真剣な祈りの中で神の名を呼び求めることは、けっして主の名をみだりに唱えることにはならないのです。また、神を心から礼拝する思いでその聖名を呼び求めることもこの戒めは積極的に求めています。
 こうした禁止と命令をとおして、結局は神の聖名を正しく用いて、心から神を愛することを神はわたしたちに願っているのです。

 では、M・Aさんのお便りの中に出てきたことはどうなるのでしょうか。M・Aさんはおっしゃいました。

 「わたしは絶えず『イエス様助けてください』と祈っています。声を出して、また小声でまた大声で祈ります。もしかしてわたしは『みだりに唱えている』のではないでしょうか。」

 もちろん、M・Aさんがそのように祈るのは、イエス様を信頼し、心から助けを求めてのことだと思います。それはイエス・キリストを救い主として仰ぐ敬虔な気持ちがなければ口にすることはできない祈りです。そういう意味で、日々の祈りの中で、主の名を何度呼び求めたとしても、それは第三戒に違反したことにはならないのです。
 しかし、ここでいつも頭の片隅に置いておかなければならないことは、主の名を呼び求めるたびに、そのことが利己心から出たものであるのか、それとも神を愛する思いから出てきたものであるか、そのことを自己吟味する姿勢です。そして、もし自分の神の名の用い方が神を愛することからかけ離れていることに少しでも気がついたならば、心から悔い改めることができるように神の助けを祈り求めましょう。

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