BOX190 2006年12月13日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 聖書と信条と聖霊について ハンドルネーム・ニッキーさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ニッキーさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しく聴かせて頂いています。
 早速ですが、少し欲張りな質問をさせていただきます。それは聖書と信条と聖霊の働きについての質問です。突拍子もない質問かもしれませんが、私の中ではこの三つは切り離せないように思えてならないのです。
 どこから説明してよいのかわかりませんが、『聖書のみ』というプロテスタント教会の主張に対して、ではなぜ『信条』の作成が必要なのか、という疑問があると思います。私自身は信条の作成は『聖書のみ』という主張とは相容れないものとは思っていません。むしろ、その逆で、『聖書のみ』という主張は信条を作成してこそその主張の真価が問われるように思うのです。口でいくら『聖書のみ』と言っても、聖書に記されていることを具体的にどう受け止めるのかがなければ、聖書のみを信じていることにはならないのではないでしょうか。
 それと、それに関係して、聖書は聖霊によって霊感された書物ですから、誤りのない書物であるはずです。それから、聖書を読む私たちにも聖霊は働きかけてくださっていると私は信じています。そうでなければ神に関わることなど私たち罪ある人間には理解できないからです。
 さて、ここからが問題なのですが、信条を作成するために聖書が何を言っているのかを研究する時にも当然聖霊は働いてくださっているとすると、出来上がった信条もある意味で聖霊の導きの産物ということはできないでしょうか。もっといえば、かつて信条を作成する時に働きかけてくださった聖霊の働きを重んじるべきではないかと思うのです。信条を軽んじたりすることは、結局、過去に働いてくださった聖霊の働きを否定したり、軽んじたりすることになるのではないでしょうか。過去の信条をとびこえて自分にだけ聖霊がはたらき、自分だけが聖書の意味を正しく理解できていると考えるのはとても傲慢に思えるのです。
 しかし、そうは言っても、宗教改革運動のことを考えると、プロテスタント教会はカトリック教会に働いていた聖霊の働きを否定することになるのではないかと思ってしまったりもします。
 要領を得ない質問かもしれませんが、よろしくお願いします。」

 ニッキーさん、とても素晴らしい内容の質問をありがとうございました。聖書も信条も聖霊の働きも、どれ一つをとってもわたしたちクリスチャンにとって大切なものだと私も思っています。
 聖書と信条の関係については、この番組でも何度か取上げたことがありますのでぜひわたしたちのホームページ「ふくいんのなみ」で検索してみてください。
 ニッキーさんがおっしゃるとおり、一見「聖書のみ」という主張と「信条の作成」とは矛盾しているように思えるかもしれません。しかし、これもニッキーさんが正しく理解していらっしゃるように、むしろ信条の作成を通してこそ、聖書主義の原則は明らかになるのです。
 問題は信条主義か聖書主義かということではありません。信条というのは自分たちの教会が何を信じているのかと言うことを記した信仰の箇条です。その信仰の箇条を引き出してくる源泉がどこにあるのかということが「聖書のみ」の原則なのです。宗教改革者たちが当時のカトリック教会に反対したのは、カトリック教会が信条を持つ教会だったからではありません。そうではなく、その信条が聖書以外のものをも神の言葉として用いることに反対したのです。ですから、徹底的に聖書の上に成り立つ信条を作成することで聖書主義の原則が明らかになるのです。
 まさしくニッキ-さんのおっしゃるとおり、ただ聖書を持っている、読んでいるというだけでは「聖書のみ」の原則に立っているとはいえないのです。

 さて、もう一つの問題ですが、聖書が霊感された書物であるということは、聖書自身が証言していることです(2テモテ3:16)。そしてまた、聖書に書かれている事柄を理解するために聖霊の働きが必要だと言うことも聖書が教えている事柄です(1コリント2:9以下)。この聖霊の働きのことをキリスト教会の用語で「聖霊の内的な照明」と呼んでいます。しかし、神の言葉である聖書から学んで理解した事柄を書き記した信条が霊感されているかというと、そうなのではありません。「聖霊による霊感」と「聖霊の内的な照明」とは全然違うことからです。聖書には神の言葉としての権威があります。しかし、信条には神の言葉としての権威はありません。信条が聖書と矛盾しているような場合には当然、信条の方が聖書に照らして改定されなければなりません。
 しかし、ニッキーさんのおっしゃるとおり、わたしたちの聖書理解にも聖霊の働きが及んでいるのだとすれば、信条を軽んじると言うことは、聖霊の働きを軽んじると言うことにもなりかねません。
 信条というのは、単なる個人の聖書理解や聖書学者の研究の成果とは違ったものです。教会の会議によって作成され、そこにはふさわしい人々がかかわります。ふさわしいと言うのは聖書学者や教義学の学者と言うことではありません。御言葉を宣教する務めを委ねられた牧師や教会の群れの監督を委ねられた長老たちによって構成される会議です。この会議に聖霊が働いてくださり、聖書の理解を助け、信条が生まれると言うことを信じているのです。そういう意味で、信条は個人や学者の意見とは違って、教会の中で重んじられるべきです。信条を気ままに否定すると言うことは、言い換えれば、自分にだけ正しく聖霊が働き、他の人々には聖霊は働いていないというに等しいのです。
 けれども、教会の会議と言っても絶対的ではありません。人間の誤りは入り込む余地がないとはいえません。そういう意味で、信条といっても、絶えず何度も、聖書と照らし合わせて、ほんとうにその言っている内容が聖書の教えと一致しているか、検討されなければならないのです。神とその言葉である聖書は絶対ですが、それを理解する人間は決して絶対ではないからです。
 しかし、そうだとしても、過去の教会の積み重ねを、自分の意見と合わないからといって、簡単に放棄してしまうべきではありません。過去も現在も同じように聖霊はわたしたちの心に働きかけてくださっているのです。過去の時代の教会にまさって自分だけが聖書を正しく理解しているとは誰も言うことができないのです。
 もし、信条に見直しの必要が感じられるとしても、教会の会議という秩序の中で、信条は検討され改定されるべきなのです。それは何よりも聖霊の働きを重んじる教会の態度であるとわたしは思います。
 そういう意味で、宗教改革運動はローマカトリック教会のすべてを否定したのではありません。この教会に働いてくださった聖霊の働きを全く評価しなかったのでもありません。その点を誤解してはならないと思います。

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