BOX190 2006年12月27日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 聖書の読み方は 千葉県 A・Fさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのA・Fさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、はじめまして。いつも番組を楽しみに聴かせて頂いています。
 さて、さっそくですが、質問させてください。それは聖書の読み方についてです。聖書を理解するためにはどのように読むのが一番良いでしょうか。聖書だけを読んでいても、分かるようでわかりにくい部分がたくさんあります。その場合、聖書について書かれた本を参考書のように読むことも大切だとは思うのですが、いったいどれを選んだらよいのか、キリスト教の書店に行っても迷ってしまいます。
 最近はインターネットで色々な先生方の解説を読むことができるので、ありがたいのですが、しかし、どこまでそれが信用できるのかという不安もあります。
 もちろん、わたしは学者ではありませんので、あまり難しいことを言われても困ってしまいます。
 私のような人が普通に読んで普通に理解できる聖書の読み方、学び方があったらぜひ教えてください。よろしくお願いします」

 A・Fさん、お便りありがとうございました。聖書の読み方についてのご質問は、この番組でも今までに何回か取上げたことがあります。何度も繰り返されて尋ねられる質問の一つではないかと思います。

 さて「聖書を理解するためにはどのように読むのが一番良いでしょうか」とのご質問ですが、どういう意味で聖書を理解しようとしているのか、それが一番の問題だと思います。
 当然ですが、どんな本を読むときでも、その本が書かれた目的に沿って読むことがなによりも大切です。わたしたちがどんな興味で聖書を読もうとしているのかということと、聖書をその書かれた目的に従って読むということとは必ずしも同じではありません。
 まずは聖書自身が語っている聖書が書かれた目的についていくつか聖書の箇所を指摘しておきたいと思います。
 まず、いちばん有名なのはテモテへの手紙二の3章16節です。

 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」

 漠然としているかもしれませんが、少なくとも聖書を通して、教えられ、戒められ、誤りを正され、ついには聖書が教える義へと導かれる訓練を受けるような仕方で読もうとする姿勢が大切です。この姿勢が最初からないとするならば、どんなに聖書を詳しく読み尽くしたとしても聖書を理解したとは言いがたいでしょう。

 もう一つ有名な箇所は、ヨハネ福音書の5章39節です。イエス・キリストは聖書についてこう語っています。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」

 確かにユダヤ人たちは神の言葉である聖書を誰よりも詳しく研究した民族でした。それは選ばれた神の民として当然のことといえば当然です。ほかでもないこのユダヤ民族だけに神の言葉は委ねられたのですから。
 しかし、イエス・キリストはそのユダヤ人に対して、「聖書はわたしを証するものだ」とおっしゃっています。つまり、聖書についてどんなに熱心に研究を進めたとしても、そのことを通して救い主であるキリストに出会わないとすれば、その読み方は失敗なのです。
 つまり、聖書を理解するような読み方と言うのは、そこにキリストとの出会いを期待する読み方なのです。イエス・キリストを抜きにした読み方は的はずれとしか言いようがありません。

 同じヨハネ福音の中にはもう一つ目的について書かれた個所があります。20章31節です。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 もっとも、これは聖書の目的と言うよりは、ヨハネ福音書が書かれた目的です。しかし、これはある程度聖書の中のどの書物にも当てはまると思います。聖書を理解したと言いうるためには、結局、イエスが神の子メシアであることを信じて、イエスによって命をいただくようになるのでなければ、ほんとうに聖書を理解したことにはならないのです。

 ところで、先ほど取りあげたテモテへの手紙には「聖書は神の霊の導きの下に書かれた」とありました。いわゆる聖書は霊感された書物であるということです。聖書は神の聖霊によって書かれたものですから、書かれた目的にそって読み、理解するためには、同じようにわたしたちの心に働きかける聖霊が必要です。聖霊がわたしたちの理解を助け、心を照らし、聖霊ががわたしたちを説得してくださるようにと願う姿勢が大切です。そのために、祈りながら聖書を読み進めることが必要なのです。

 さて、以上述べてきたことは聖書を読む上での心構えのようなものです。実際に聖書を読むときには、もちろん、学問的な研究も大切です。それこそキリスト教書店に行けば、たくさんの聖書注解書を目にすることもできるでしょう。もっとも、A・Fさんがおっしゃるようにどれを選んだらよいか迷ってしまうかもしれません。もし、何かを買って聖書を学ぼうとされるのでしたら、とりあえずは聖書事典と呼ばれるものを手に入れられるのがよいかと思います。それと、いくつかの翻訳の聖書を読み比べるだけで、かなり聖書研究的な読み方ができるはずです。
 ただ、もう一つの大切な点は、今までこの地上に生きてきたクリスチャンのほとんどは聖書をギリシャ語やヘブライ語の原点で学んでクリスチャンになったのではないという事実です。そうではなく、自分の国の言葉に翻訳された聖書を学んでクリスチャンになったのです。
 それには聖霊が確実に一人一人に働きかけてくださったからという大きな理由があります。それと同時に、教会の働きも無視することはできません。教会では毎週日曜日の礼拝で、聖書の御言葉が解き明かされています。その聖書の解き明かしというのはただ単なる牧師の個人的な聖書研究の発表の場ではありません。長年にわたって教会が信じ告白してきた聖書の教えにのっとった聖書の解き明かしです。その説教から学ぶことは、歴代のクリスチャンが聖書をどのように読み、学んできたかを知るもっとも確かな方法です。

 以上、述べてきた事柄を頭に置きながら、もっと聖書のそれぞれの書物についての学問的な研究をされるならば、さらに深く聖書を味わうことができるようになると確信いたします。

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