聖書を開こう 2006年2月23日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「神の国の奇跡」 マタイによる福音書 9章27節〜34節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストの生涯を描いた福音書には数多くの奇跡が記されています。奇跡を描いた箇所にくると、そこから先へ進めなくなってしまうという人もたくさんいます。確かに奇跡というのは常識では考えられないことばかりです。常識ではありえないことを信じるというのは、なかなか難しいことです。しかし、常識ではありえないことだからこそ、奇跡といえるいのです。当たり前のことが当たり前のことのように起こったとすれば、それは少しも注目に値しない事件で終わってしまいます。けれども、奇跡の特異性だけが強調されて、その奇跡を通して語っておられる神のメッセージに耳を傾けないとすれば、それも、また奇跡を十分に受けとめたとはいえないのです。

 きょう取り上げようとしている個所は、今まで取り上げてきたキリストの様々な奇跡のまとめとでも言える内容の奇跡です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 9章27節から24節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

 二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

 今お読みした聖書の個所には、二つの奇跡の記事が記されていました。一つは目の見えない二人の人の癒しを描いた奇跡でした。もう一つは口がきけない人の身の上に起った奇跡の話です。確かにこの二つの話は別々の話ですから、二回に分けて取り上げるのが適当かもしれません。しかし、あえて一度に取り上げてしまうのには理由があります。

 実は、旧約聖書の預言者イザヤは、栄光が回復される将来の時代を告げるときに、こう述べているのです、イザヤ書35章5節以下の言葉です。

 「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。」

 預言者イザヤはやがて訪れる終わりの日の救いを描く時に「目の見えない人の目が開かれること」「耳の聞こえない人の耳が開かれること」「歩けなかった人が躍り上がること」そして「口の利けなかった人が喜び歌うこと」をその特徴としてあげています。

 後に洗礼者ヨハネがその弟子たちを遣わして、イエスが来るべきキリストであるかどうかを尋ねさせた時、イエス・キリストもこうお答えになりました。

 「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

 ここでも、目の見えない人の目が開かれることや、耳の不自由な人が聞こえるようになることは、キリストがやってこられる世の終わりの救いの出来事と関連付けられています。

 つまり、ここでイエス・キリストが盲人の視力を回復させ、口の利けない人の口を開かせたのには、特別なメッセージが込められていたということなのです。マタイによる福音書もそのことを意識して、一連の奇跡についての記事をまとめる際に、わざわざこの二つを選んで締めくくりとしたのでしょう。

 もちろん、マタイによる福音書には、この後にも奇跡の話が出てこないわけではありません、しかし、マタイ福音書の構成から考えると、9章のおしまいで一つの大きな段落があることは否めません。なぜなら、9章の最後の言葉は、これまでのイエスの活動を総括する言葉だからです。マタイ福音書はイエスの働きをまとめてこう記します。

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

 その働きは収穫物の多さに対して働き人の不足を痛感させるものでした。そこで10章以下には弟子たちの派遣という新しい展開がなされます。

 そういうマタイ福音書の構成から考えると、9章はそれまでのイエスの活動をまとめる章であると考えられます。そして、そういうまとめの段落に、目の見えない人をお癒しになり、口の利けない人を話せるようにした奇跡を載せたのは、イエスがいかなるお方であるのかといことを、旧約聖書の預言の言葉と関連させながら暗示しているのです。

 口が利けない者をキリストがお癒しになったとき、ファリサイ派の人たちが「『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った」とあります。奇跡には必ず起っている出来事がどういう意味を持つのか、そのメッセージを聞き取ることが大切です。残念ながら、ファリサイ派の人々はこの奇跡を通して語られる神のメッセージを捉えることができなかったのです。彼らにとっては、イエスは救い主キリストではなく、悪霊の力によって悪霊を追い出す悪魔的な存在としか映らなかったのです。

 しかし、イエス・キリストは後にこうお答えになりました。

 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)

 旧約聖書の預言に耳を傾けている者にとっては、イエスこそ、神の国をもたらす来るべき救い主キリストなのです。何よりもこれらの奇跡はそのことを物語っているのです。

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