聖書を開こう 2006年4月20日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「伝道する者の栄誉と光栄」 マタイによる福音書 10章40節〜42節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 この時期の大学4年生ともなると、卒業後の自分の働き場もそろそろ具体的に決まってくる頃ではないかと思います。自分の仕事を選ぶ時に、その仕事をしていくらのもらえるのかというのは、だれでも気になることだろうと思います。もちろん、どれぐらいの給与をもらえるのかということは、社会への貢献といった評価と結びついているのですから、正しい報いを求めるということは、あながち悪いこととはいえないでしょう。しかしまた、報いというのは金銭に換算できないこともあります。働きによってその人に栄誉がもたらされることもあります。そういう報いによって励まされ、さらに仕事にまい進するということもあるでしょう。

 さて、十二人の弟子たちを派遣されたイエス・キリストはどのような報いを弟子たちに約束しておられるのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 10章40節から42節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 きょう取り上げた個所は、十二人の弟子たちを派遣するに当たって、イエス・キリストが弟子たちにお教えになった様々な教えの締めくくりに当たる部分です。十二人の弟子たちは神の国の福音を宣べ伝えるためにキリストによって今まさに遣わされようとしています。その弟子たちに与えたしめくくりの言葉は、今まさに弟子たちが遣わされようとしている働きがどれほど大きな栄誉ある働きであるかを示しています。

 まず、初めに、派遣されていった弟子たちは、あたかもキリストと一体であるかのように扱われているということなのです。

 神は弟子たちの働きを通して、神の国の福音が宣べ伝えられることを願っています。弟子たちは決して自分が受け容れられるための自己宣伝をするために遣わされるのではありません。けれども、弟子たちが遣わされた働きは、弟子たちを遣わしたキリストと一体的なのです。弟子たちが人々に受け容れられる時、お遣わしになったキリストご自身が人々に受け容れられているのです。弟子たちが拒絶される時、それによってキリストご自身がが拒絶されているのです。十二人の弟子たちの働きはそれほどに大きく重たい使命を帯びた働きなのです。

 キリストによれば、実はイエス・キリストご自身も同じ使命を帯びて父なる神のもとから遣わされてきたのです。キリストを受け容れた者は、キリストをお遣わしになった父なる神を受け容れているのです。ですから、十二人の弟子たちを受け容れることは、キリストをお遣わしになった神をも受け容れることに繋がっているのです。逆に十二人の弟子たちを拒む時、キリストをお遣わしになった神を拒んでいることになるのです。

 後に初代キリスト教会の使徒となったパウロは、自分の働きをこう述べています。

 「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。」(2コリント5:20)

 福音の宣教を委ねられた者は、言ってみれば神の国を代表する大使なのです。大使の務めは重いものですが、栄誉ある働きです。そのような栄誉をキリストは十二人の弟子たちにお与えになっていらっしゃるのです。

 このイエス・キリストの言葉は、文字通りには遣わされていく十二人の弟子たちに対する言葉です。しかし、以前にも番組の中で触れた通り、キリストは、ただ単に目の前にいる弟子たちだけを対象にこのことをおっしゃったのではありません。後の時代に働くすべての伝道者の働きもここでは含まれているのです。従ってキリストの言葉は神の国の福音を携えるすべての者がもっている栄誉ある務めについて語っているのです。

 しかし、また同時に、伝道者の働きが単なる自分を宣伝することに終始してしまうとすれば、その責任はまぬかれることはできません。自分が受け容れられる時、お遣わしになったキリストが受け容れられることを願いとし、喜びとしなければならないのです。

 ところで、続く41節と42節は、一見したところ、弟子たちに対する言葉というよりは、弟子たちを受け容れる人々に対する言葉のように思われます。つまり、遣わされてきた者を受け容れる人々が受ける報いについて語っているように思われるからです。確かにここだけを前後の文脈から切り離して読めば、まさにその通りでしょう。

 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」

 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 どちらも、報いを受ける人々に対して、その報いが確かなものであることを約束する言葉のように思われます。  しかし、今まで10章で学んできたように、ここに記されている一連の教えは、遣わされていく弟子たちに対するキリストの言葉なのです。

 預言者を預言者として受け入れる人が、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人が、正しい者と同じ報いを受けるとするならば、当然、それに続く言葉はこうあるべきところです。

 「わたしの弟子をわたしの弟子として受け容れるならば、わたしの弟子と同じ報いを受ける」

 しかし、キリストはそうはおっしゃらずに、弟子たちのことを「小さな者」と呼んでいるのです。キリストのでしたちは大使のような大きな重い務めを担っています。しかし、小さな者なのです。けれども、この小さな者にした小さなことは、決して取るに足りないこととして見過ごされてしまうことはないのです。弟子たちは偉大な預言者や正しい義人たちのように立派ではないかもしれません。しかし、小さな者に過ぎないとしても、その扱いは決して小さなものではないのです。キリストはそういう者として、弟子たちを派遣しようとされているのです。

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