聖書を開こう 2006年9月7日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 恐れから信頼へ(マタイ14:22-36)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 16世紀に書かれたハイデルベルク信仰問答の問21に「まことの信仰とは」という問いがあります。その答えは「…確かな認識のことだけでなく、…心からの信頼のことでもあります」と記されています。確かに信仰は聖書に記されたことが真実であることを知っていなければ始まりません。聖書の信仰は「いわしの頭も信心」というわけには行かないのです。しかし、信仰とは知っているというだけではなく、神とその言葉に全幅の信頼を寄せると言うことがなければ、ただの知識に終わってしまいます。
 きょう取上げる個所はまさに信仰の知識と信頼とが問われている個所のように思われます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 14章22節から36節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

 きょうの個所は、前回学んだ五千人もの人々を五つのパンと二匹の魚で養われた奇跡の話の続きです。イエス・キリストはご自分を慕ってくる群衆に十分な食べ物を与えてから彼らを解散させました。同時に弟子たちも一足先に湖を船で渡らせ、ご自分は祈るためにひとり山へ登られたのです。大きな奇跡を行なった後、ひとり山に登って祈りの時を過ごされるイエス・キリストの姿が印象的です。何をどう祈られたのかは何も記されていません。それは飼う者のいない羊の群れのような群衆のためであったかも知れません。あるいは父なる神から与えられたご自分のこれからの使命と働きについて祈っていたのかも知れません。あるいは先に行かせた弟子たちのために祈っていたと言うこともあるでしょう。
 山の上で父なる神と祈りの交わりを静かに過ごされるイエス・キリストの姿とは対照的に、湖の上では逆風と波に悩まされている弟子たちの姿が描かれます。弟子たちはもともと、自発的にイエスと分かれて船に乗ったわけではありませんでした。マタイ福音書はイエスが弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」たと記しています。そうであれば、強風に煽られ波に揉まれるこの事態は、弟子たちには一層不本意なことと感じられたことでしょう。弟子たちの何人かはこのガリラヤ湖で漁師をしていた者たちでしたから、たいていの波風には対処できる知恵も能力もあったことでしょう。その彼らが行き悩むほどでしたから、風も波も尋常ではないものだったのでしょう。

 そんな中、夜が明ける頃になって湖の上を歩いて弟子たちのところへ近づいてくるイエスの姿が描かれます。そして、それを目撃した弟子たちの恐怖心がどれほど大きなものであったのか、そのことも同時に描かれています。「幽霊だ」といって怯える弟子の姿が印象的に描かれています。五千人もの人々に食べ物を分け与える奇跡を行なったイエス・キリストを目の当たりにしたからと言って、湖の上を歩かれるイエスをそのままに信じるほど弟子たちの心は準備されていなかったようです。

 恐れる弟子たちにイエス・キリストは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声を掛けてくださいます。「恐れ」や「恐怖」とは「信仰」の対極にあるものです。信仰とは正しい知識とまったき信頼とから成り立っていると番組の最初でお話ししましたが、正しく理解しないところに恐れは生じ、信頼のないところに恐怖が支配するのです。
 ペトロはイエスの呼びかけに応えて「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願います。福音書全体に出てくるペトロの発言と読み比べてみると、このペトロの発言はいかにもペトロの発言らしい印象を受けることでしょう。なんでも真っ先に飛びつこうとするペトロの性格をよく表しているかもしれません。しかし、これは不完全なものであるかもしれませんが、イエスに対するペトロの信仰の表明なのです。
 そうであればこそ、イエスはペトロを無謀だと言って諌めはしないで、かえって「来なさい」と促しさえしてくださいます。水の上を歩こうとするペトロの姿は、このイエス・キリストの「来なさい」と言う言葉に促され、応えるものなのです。信仰とは呼びかけてくださるお方に信頼し、一歩を踏み出すことなのです。

 ところで、この水の上を歩こうとするペトロのエピソードが興味をひく点は、ペトロがイエスの言葉に促されて一歩を踏み出したと言うことばかりにあるのではありません。むしろ、ペトロの目がイエスから離れて、再び強い風に気をとられてしまったところにもあります。福音書はイエスに全幅の信頼を寄せて水の上に足を踏み出す崇高なペトロの姿を描くと同時に、その一瞬先にはイエスから目をそらして目の前の風に怯えるペトロの姿をも描いているのです。これは、ペトロひとりのことではなく、地上に生きる信仰者一人一人のありのままの姿であると思います。信仰とはイエスを知り、イエスに全幅の信頼を寄せることであるとは言っても、なお、目の前の恐怖に心を奪われるのが人間の弱さです。
 イエス・キリストはペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいました。人間の弱さとは自分の力に失望し、同時にイエス・キリストの力をも見失うことです。イエスのおっしゃるペトロの「信仰の薄さ」とはまさにこの点にあるのです。自分の力に失望することは当然です。しかし、恐れを抱く時にもなおイエスを信頼しつづけて歩むことが信仰なのです

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