聖書を開こう 2006年12月28日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 兄弟を失う愚、兄弟を得る知恵(マタイ18:15-20)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の礼拝の中で共に唱える使徒信条の中に、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と言う言葉が出てきます。プロテスタント教会のほとんどの教派の理解によれば、「教会」と「聖徒の交わり」はほとんど同じ意味のことを言い換えているのだと言うことです。つまり、「教会」とは「聖徒の交わり」なのです。
 「聖徒の交わり」というのは「聖なる者たちの共同体」といってもよいかと思いますが、問題は「聖なる者」とは何かと言うことです。教会が聖なる者たちの共同体であるならば、教会の中に汚れた者が入り込むことができないと考えるのはもっともなことです。また、そのように世の人々も教会についてのイメージを持っていることでしょう。
 しかし、現実の地上の教会の中には、弱さから罪を犯してしまう教会員もいるのです。教会が聖なる者たちの共同体であるなら、そのような会員を除名にしてしまえば教会の清さを保つことが出きるでしょう。
 では、イエス・キリストはそのことについてなんとおっしゃっているのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 18章15節から20節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 きょう取り上げる箇所は、前後のつながりに注意して読む必要があります。今まで学んできた一連の話は、弟子たちが尋ねた質問…「天の国では誰が一番偉いのか」という質問がきっかけの話でした。イエス・キリストはその質問に答えて、「子供のように自分を低くする者が天の国で一番偉いのだ」とおっしゃいました。また、それと同時に、もっとも小さな者たちを軽んじないで大切にすることこそ大事なことだと言うことも学びました。イエス・キリストはその一連の話の締めくくりに、こうおっしゃいました。

 「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 きょうの学びは、このイエス・キリストのおっしゃったことと無関係ではありません。きょうの聖書の箇所を読む時に大切なことは「これらの小さな者たちが滅びることは、天の父の御心ではない」という点を念頭に置いて読むことです。一匹の羊を大切にされる天の父なる神は、一人の罪人が教会の交わりから完全に締め出されることを望んでいらっしゃるのではありません。
 そのことは、きょうの続きの箇所を読んでも明らかです。そこでは、悔い改める兄弟を何度でも赦し、受け容れることが勧められています。

 さて、きょう取上げる個所には、自分に対して罪を犯した兄弟とどう接していくのか、具体的な手順が記されています。もちろん、それは先ほどから何度も繰り返しているとおり、その兄弟を教会の交わりから締め出すための手続きではありません。一人の罪を犯した兄弟を真実に教会の交わりの中に留めるための手続きです。罪は神に対しても人に対しても交わりを破壊するものです。だからこそ、破壊された交わりを修復し、再び交わりの中に兄弟を得る知恵が必要なのです。

 では、どのような手順を経て、兄弟を再び交わりの中に回復すべきなのでしょうか。
 まず「行って二人だけのところで忠告しなさい」とキリストはお命じになります。自分に対して思い込みではなく明らかに罪を犯しているという事実があるなら、その人のところへ「行って忠告する」ことが先ず求められています。罪が明らかであるならば放置すべきではないのです。
 しかも、それは二人だけのところで忠告するようにと命じられています。人間の心は頑なになりやすいものです。罪だと分かっていても、中々素直にそれを認めたり、そこから離れることができないものです。まして、大勢の人々の前で、その罪が突然指摘されるならば、ますます頑なになってしまうものです。兄弟を交わりの中から失いたいのなら大勢の前で追い詰めるのが一番良い方法でしょう。しかし、キリストが望んでいらっしゃることは、追い詰めることではありません。その罪を犯した兄弟が罪を認め、素直な心で悔い改めることです。

 しかし、それでも、なお聞き入れない場合には、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」とお命じになります。それは旧約聖書に記された手続きに則ったものです。申命記19章15節以下によれば、どんな罪も二人または三人の証言によって立証されるべきであると言われているからです。もちろん、主イエス・キリストがそのことをおっしゃるのは、罪人を詰問して追い詰めるためではありません。客観的に事件を描き、罪を犯したその人が自分の罪に気がつくためです。

 しかし、さらにそれでも聞き入れないとするならば、「教会に申し出なさい」と言われます。実はマタイ福音書の中では「教会」と言う言葉は16章で初めて登場して、この18章まで一度も出てこない言葉です。そして、このあとも一度も出てこない珍しい言葉です。さらにはイエス・キリストご自身の言葉として「教会」という言葉が出てくるのは、マタイ福音書以外には一度もありません。ですから、この「教会」と言う言葉が指す内容を明確にすることは難しいかもしれません。今日で言えば、それは長老会であるかもしれません。あるいは教会の役員会であるかもしれません。あるいは全教会員と言うことかもしれません。その場合の「教会」が具体的に何を指すのかという問題はさておくとして、少なくともその教会がなすべきことの最終的なことが記されています。もちろん、教会に申し出た時点で、その人が罪を認め、悔い改めるなら、それでも遅すぎると言うことはないのです。それで兄弟を得ることができればそれでよいのです。
 しかし、その教会の中でも、なお、罪を認めないとすれば、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われています。それは言い換えるならば、彼がもといた場所、神を知らなかったときにいたところへ彼を置くと言うことです。それ以上のことも、それ以下のこともしてはならないのです。
 教会での手続きはそこで終わっているのです。その人を悔い改めないからと言って、拘束したり、強制労働を命じたりすることはないのです。体罰を加えると言うことも自由を奪うと言うこともないのです。ただ、教会の交わりから元いた場所へと戻すのです。
 ただ、それとても永遠の処置ではありません。その人が教会の交わりから除かれた時に、罪を自覚し、悔い改めを言い表すならば、いつでも元の交わりに回復されるのです。
 「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」からです。

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