BOX190 2007年2月14日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 日本にキリスト教が伝来したのは? ハンドルネーム くもさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・くもさんからのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、はじめまして。小生インターネットでこちらの番組を知り、時々覗かせていただいています。
 さて、生半可な聞きかじりで申し訳ないのですが、以前何かで小耳に挟んだことですが、キリスト教が日本に入ってきたのは、実はザビエルよりももっと前のことなのだそうです。
 もっとちゃんと覚えていればよかったのですが、うろ覚えですみません。そのような学説が本当にあるのでしょうか。それともただの俗説にすぎないのでしょうか。ちょっと興味があってメールさせていただきました。よろしくお願いします。」

 くもさん、メールありがとうございました。学校の歴史の時間に習って誰もが知っているのは、1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによって初めてキリスト教が日本に伝えられたという話ではないかと思います。1549年を語呂合わせで「以後よく(1549)広まるキリスト教」などと覚えたのではないでしょうか。
 16世紀というのはヨーロッパのキリスト世界では一大事件が起った時代でした。ご存知の通り宗教改革の時代です。プロテスタント教会が生まれ、ローマカトリック教会から別れていった時代です。友好的に分かれていったというのではなく、プロテスタント運動にかかわった指導者たちはカトリック教会を破門されてしまったのです。それで、プロテスタントの人たちは自分たちの運動を宗教改革と呼びますが、カトリックの歴史家たちはこの時代を信仰分裂の時代などと呼んでいます。
 カトリック教会ではプロテスタント教会に対抗する意味で様々な対策をとりましたが、海外宣教によってカトリック教会の拠点を拡大していくというのもその一つの対抗策でした。そうした歴史的な背景はどうあれ、とにかくこの時代にキリスト教の世界地図が拡大していったことは間違いのない歴史的な事実です。
 そうして、とうとう東洋の東の果ての国、日本にもキリスト教が伝わってきた、というのが学校の歴史の時間に習う内容です。

 さて、キリスト教会にはそれよりもずっと以前にも、信仰の分裂の時代がありました。それを信仰の分裂といってよいのか躊躇しますが、431年にエペソ公会議という教会の会議が開かれます。この会議はいわゆるネストリオス論争を解決するためのものでした。この会議によって異端とされたネストリオスとその一派の流れは、その後、アラビア、インドなどにも伝わるようになったのです。そして中国には635年にペルシア人、阿羅本(アラボン)によって伝えられ、大秦景教(たいしんけいきょう)と呼ばれるようになりました。学校の歴史の時間に「大秦景教流行中国碑」という写真をご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。唐の都長安では皇帝太宗の保護を得て盛んになったそうです。
 くもさんがお聞きになったのは、この景教と呼ばれるネストリオス派のキリスト教が日本にも伝来したのではないかという話ではないかと思います。
 では、なぜそんなことが言われるようになったかと言う話ですが、京都にある広隆寺という有名なお寺をご存知だと思います。国宝第1号の弥勒菩薩半跏思惟像で有名なお寺です。このお寺は地名から太秦寺(うずまさでら)とも呼ばれています。さて、景教は碑文にもある通り大秦景教と呼ばれていました。「大秦」というのはローマ帝国のことだと解釈されていますが、つまり、この教えがローマから伝わってきたということです。この大秦景教は今で言う教会を建てたのですが、その名は「大秦寺」と呼ばれていました。
 ここまで、番組を耳でお聞きになっていらっしゃる方には大秦寺と太秦寺がどんな関係があるのかまったく想像もつかない話だと思います。「大秦」という字と「太秦」という字は漢字1文字だけ違っています。ローマ帝国を表す「大秦」の「大」は「大きい」という字です。太秦寺の方は「太い」という字です。しかし、どうも、太秦寺は中国の大秦寺に倣って建てたのではないかという話です。それを最初に言い出したのは、江戸時代の漢学者大田錦城(おおたきんじょう)という人です。
 もっとも、太秦寺ができたのは622年で、大秦景教が中国に入ってきたのは635年ですから、時代が前後してしまいます。
 さて、先ほど中国に景教を伝えたのはペルシア人だということお話しました。実は日本にも聖武天皇の時代にペルシア人が来ていることが記録にあります。『続日本紀』によれば天平8年(736年)のことです。それでこのペルシア人を景教の宣教師ではないかと考えるわけです。中国に景教をもたらしたのがペルシア人であることを考えると、日本に来たそのペルシア人が景教徒であった可能性はゼロではありません。しかし、文書に残った記録からはその人物が景教の宣教師であったということを思わせるだけの確かな証拠はありません。
 しかし、まだ面白い話は続きます。先ほどの太秦寺は秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子のために建てた寺だと言われています。この聖徳太子ですが『日本書紀』によれば厩戸皇子(うまやとのおうじ)と呼ばれています。なぜ、厩戸(うまやと)なのかというと、聖徳太子は厩戸の前で生まれたからだと伝説では言われています。ここまでくるとピンと来るかもしれませんが、これはまぶねの中に寝かされたキリスト誕生の物語と似ているというのです。そこで、その時代に景教が日本に入ってきていて、聖徳太子の伝説に影響を与えたのではないかというのです。もっとも、厩戸というのは聖徳太子が生まれた場所辺りにそういう地名があり、そこから名付けられたのではないかと言う説の方が有力です。
 最後にもう一つだけ、面白い話があります。「いろはにほへと」というのをご存知だと思います。弘法大師の作であると言われています。仏教の思想を織り込んで、かな文字すべてを配列した見事な詩です。このいろは歌を7文字ずつ区切って並べて、それぞれの行の最後の文字を続けて読むと「とかなくてしす」となります。つまり「咎無くて、死す」となるわけです。そこで、このいろは歌には、実は罪なくして十字架で死んだキリスト教の思想が埋め込まれているのだと言うことになるのです。唐に渡った弘法大師は、景教から多大な影響を受けたのではないかというまことしやかな説がささやかれているのです。

 以上、面白い話はつきません。わたしは歴史の専門家ではありませんので、どこまで信憑性のある話なのかはわかりませんが、どうもまだ偶然の一致という範囲を出ていないような気がします。確かに景教と呼ばれるキリスト教の一派がお隣りの国、唐の時代の中国までやってきていたと言うところまでは歴史の真実だとしても、そこから先、その時代に日本にまでわたってきていたのかどうかは証拠が十分でないように思います。

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