BOX190 2007年3月14日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: いつも喜んでいるとは? 大分県 K・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大分県にお住まいのK・Yさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも丁寧に質問にお答えくださりありがとうございます。
 さて、聖書の中に『いつも喜んでいなさい』という有名な言葉がありますが、わたしにはいつも喜んでいるなどということは無理なような気がします。実際、人生には悩みや苦しみがあるというのは避けられないことではないでしょうか。それでも、喜んでいなければならないとしたら、それは感情を押し殺すことになるように思います。いったい聖書は何を私たちに求めているのでしょうか、教えてください。よろしくお願いします。」

 K・Yさん、メールありがとうございました。「いつも喜んでいなさい」という言葉は、テサロニケの信徒への手紙一の5章16節に出てくる有名な言葉です。ご存知のとおり、それに続いて「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」という言葉が記されています。これらの三つのこと…つまり「喜び」「祈り」「感謝」という三つのことは決してバラバラのことではないように思います。いつも喜んでいることは、絶えず祈ることと密接に繋がっているように思います。また、どんなことにも感謝がなければいつも喜んでいることもできないように思います。そういう意味で、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」という言葉は、ただ、「感謝」することだけに掛かっているのではないように思います。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝すること、この三つのことはワンセットで「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」なのだと思います。

 さて、K・Yさんは「いつも喜んでいることは無理なような気がする」とおっしゃいました。その理由は、人生には嬉しいことばかりではなくて悩み苦しみがつきものだからだとおっしゃいます。確かに人生には悩みや苦しみがあります。もし、人生が楽しいこと嬉しいことばかりだとしたら、そもそもこの「いつも喜んでいなさい」という勧めの言葉にどんな意味があるのでしょうか。楽しいこと、嬉しいことに満ち溢れた人生を素直に喜べない人に対する勧めの言葉なのでしょうか。そうだとすれば、こんな勧めの言葉を手紙の最後に書かれてしまったテサロニケの教会の信徒たちは随分ひねくれた人たちだということになってしまいます。むしろ、パウロがここでそんな勧めをしているのは、人生には悩みや苦しみがあることが前提なのではないでしょうか。そうであるからこそ、いつも喜んでいることが大切なのではないでしょうか。
 もし、この勧めの言葉をこんな風に理解したとしたらどうでしょう。
 「クリスチャンになれば、毎日幸せなことがいっぱいのはずです。もしそうでないなら、いつも喜べるように一所懸命努力して楽しいこと嬉しいことで人生を満たしましょう。それがクリスチャンの生き方です。」
 もし、パウロが言っていることがそういう意味だとしたら、この勧めの言葉を実践することはやがては苦痛以外のなにものでもなくなってしまうはずです。
 「いつも喜んでいなさい」ということは、「毎日楽しいことで人生を満たしなさい」ということとは全然違うことなのです。
 そもそもこのテサロニケの信徒への手紙の中で、一番最初に出てくる「喜び」という言葉は、1章6節のこんな言葉です。

 「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れました。」

 まず、テサロニケの人たちが体験した喜びは、必ずしも、幸せな暮らしの中で感じた喜びではなかったと言うことです。そうではなく「ひどい苦しみの中で」体験した喜びです。ですから、「いつも喜んでいなさい」というのは、「いつも嬉しい楽しい生活を送りなさい」と言うことではないのです。
 第二に、テサロニケの教会の人たちが体験した喜びは「聖霊による喜び」でした。具体的に「聖霊による喜び」が何であるのかという説明はここには記されていません。ただ言えることは、パウロの言う「喜び」はこの世の喜びとは異なるものであるということです。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙5章22節で聖霊の結ぶ実を挙げていますが、その一つに「喜び」を挙げています。「いつも喜んでいなさい」という勧めの背景にも、この聖霊の結ぶ実としての「喜び」があるのではないかと思われます。

 さて、悩み苦しみに満ちた人生の中で聖霊の結ぶ実である喜びをいつも持ちつづけるために、どうしたらよいのでしょうか。もちろん、その喜びは聖霊の結ぶ実なのですから、聖霊の導きに謙虚に信頼するということは言うまでもないことです。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と勧めた後で、パウロは「御霊の火を消してはいけません」と述べているとおりです。聖霊の導きを信じながら、「絶えず祈ること」「どんなことにも感謝すること」にも注意を払うことが大切です。

 そこで、パウロは「いつも喜ぶ」ということと並んで、「絶えず祈る」と言うことの大切さを教えています。
 「祈り」と言うのはただ単に私たちの願いを神様に聞いていただくと言うことではありません。むしろ、私たちの必要をご存知である神様の御心を尋ね求める機会でもあります。私たちにとって思い通りにならないと言うことは、喜べない大きな原因の一つです。しかし、思い通りにならないと言うことの中にも、神様の深い配慮があるのだということを祈りを通して気がつかされるときに、それを喜びと感じることができるようになるのです。ですから、絶えず祈らなければ、神の深い配慮を知ることができず、従って喜ぶこともできないのです。

 また、パウロは「いつも喜ぶ」ということと並んで「どんなことにも感謝すること」を教えています。
 「感謝」というのは「不平不満」の反対語です。当然のことですが、不平や不満で心がいっぱいのときには、感謝の思いはどこかに消え去ってしまいます。自分の生活の中に感謝を見出すことができなければ、当然いつも喜んでいることもできないはずです。いつも喜んでいるということは、結局のところ、自分の人生のあらゆるところに神の恵みを見出し、感謝することなのだと思います。
 辛いと思う人生、苦しいと思える人生の中に、神の特別な恵みを数え上げることができる人が、いつも喜んでいる人生を歩むことが出来る人なのです。そして、そのような営みをただ聖霊に謙虚に信頼してなしていくところに、クリスチャンとしての生き方があるのだと思います。

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