BOX190 2007年3月21日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 注意の仕方について ハンドルネーム・フラワーさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・フラワーさんさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも尊い放送をありがとうございます。番組を毎週楽しみに聞かせていただいております。
 さて、きょうは先生から適切なアドバイスをいただきたく思い、メールいたしました。質問と言うのは、教会の中で誰かを注意するときの心づかいというのでしょうか、賢い注意の仕方について教えていただきたいと思います。
 この世の中では誰かを注意すると言うことがとても難しくなってきています。下手に注意をしようものなら、こちらが返って危険な目にあうことさえあって、ついつい見て見ないふりをしてその場をやり過ごすことが多くなっています。もちろん、教会の中でそんな横暴な人を見かけることはないのですが、それでも、気になることがあって、注意をした方がいいかなと思うことが時々あります。
 相手の向上を思う気持ちと、相手を傷つけたくないという配慮が必要なことは理解しておりますが、どうしたものかと思いながら、どうしたらよいのか悩んでいます。
 先生のアドバイスをいただければ嬉しく思います。よろしくお願いします。」

 フラワーさん、メールありがとうございました。教会の中でもお互いに注意をしあうこと、また、受けた注意や忠告を謙遜に受け止める態度は、この世以上に大切なことだと思います。もちろん、誰からも注意を受けないほど立派なクリスチャンに皆がなれれば、それは一番の理想です。しかし、現実の教会では注意や忠告が必要な場面と言うのは必ずあることだと思います。ですから、コロサイの信徒への手紙三章16節では、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合」うことが勧められています。また、ローマの信徒へ送った手紙の中で、パウロはローマの教会の信徒たちについてこう書いています。
 「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」(15:14)
 これらの聖書の言葉からも明らかなとおり、互いに諭しあったり、戒めあったりすることは教会の中でも求められていることなのです。しかし、それは知恵を尽くして、善意に満ちてなされるのでなければならないのです。

 さて、教会の中でどんなふうに人を諭したり、忠告したりしたらよいのか、一概には言い切れない部分がたくさんあることは確かです。残念ながらどんなに心を尽くしても、必ずうまくいくという対処法はありません。あくまでもケースバイケースです。しかし、いくつかの原則的な注意点は挙げることができると思います。
 まず、第一に先ほど引用した手紙の中にもありましたが、忠告する人が「善意に満ちている」ということは必要最低限の鉄則です。もちろん、「注意をする」「忠告をする」というのは大抵は善意から出るものです。しかし、時として、いらだった気持ちから忠告をしたり、相手を自分の支配下に置きたいという隠れた意識から人を注意すると言うこともあるのです。いつも忠告に善意が伴っているように心がけることは大切です。
 第二の鉄則は、忠告の目的が相手の徳を高めることであるということです。エフェソの信徒への手紙4章29節でこう言われています。
 「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」
 どんな正しい忠告でも、聞いた人の徳や品性がそれによって高められるのでなければ語る意味がありません。人は時として、相手の欠点をあげつらうことで、言いようのない満足感を得ることがあります。しかし、欠点を指摘するだけでは、その人を造り上げるのに役立つとはいえません。相手の徳を高めるという目的が見失われるような忠告は避けるべきです。
 この二つの鉄則、「善意に満ちている」ということと「相手の徳を高める」ということは、当たり前のことのように思われるかもしれませんが、実は最も忘れやすく抜けやすい点なのです。
 ちなみに聖書には「互いに」というキーワードが出てくる勧めがいくつかあるのですが、先ほどの二つの鉄則の重要性を考えるヒントになります。たとえば、ローマの信徒への手紙14章13節でパウロはこう言っています。
 「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」
 忠告に「善意」や「相手の徳を高める」気持ちがなくなってしまえば、それこそ泥沼の裁きあいになってしまいます。
 あるいはヤコブはその手紙5章9節でこう言っています。
 「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです」
 忠告に「善意」や「相手の徳を高める」気持ちがなくなってしまえば、それは相手を不快に思う不平の並べたてになってしまいます。
 ですから、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思」うことや(ローマ12:10)、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合」うこと(エフェソ4:32)が聖書ではしばしば勧められるのです。

 何を忠告するか、これも大切な問題です。聖書で明らかに教えられていることに反する事柄、また聖書の教えから導き出される正当な結論に反するような事柄に関してしては、当然、忠告すべきでしょう。しかし、何が聖書の教えかと言うことに関しては、時として意見の分かれるものもあるかもしれません。ですから、その教会や教派でコンセンサスを得ている聖書の教え以外のことについては、むやみに注意や忠告をすべきではないでしょう。特に聖書が必ずしも白黒をはっきりさせていない問題について、個人の主観的な考えに基づいて誰かに忠告を与えると言うのは分裂のもとにこそなれ、少しもよい結果を期待することはできません。
 ですから何について忠告を与えようとしているのか、それがコンセンサスを得た聖書の教えであるのかどうか、今一度慎重に考えてから忠告を与える必要があるということです。
 また、どう忠告を与えるのか、忠告の与え方にも工夫が大切です。公衆の面前で相手の自尊心を傷つけたり、恥をかかせるような仕方で忠告を与えれば、その忠告が素直に受け容れられるとは思いません。最初に話した二つの鉄則が相手にも感じられるように忠告をすることはなによりも大切です。
 忠告が善意と建徳を願う心から出たものであると言うことは、忠告の仕方にも表れますが、忠告をしたあとのフォローにもそれがにじみ出ていなければ、成果をあげることは難しいと思われます。
 忠告は決して言いっぱなしであってはなりません。自分の忠告がどう受け止められ、それが実を結んでいるか最後まで見届ける姿勢が大切です。
 あくまでも原則ですが、以上のことに気をつけるならば、きっとよい結果を生み出すことができると確信いたします。 しての生き方があるのだと思います。

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