聖書を開こう 2007年1月25日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 永遠の命を得るには(マタイ19:16-22)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書の中には「永遠の命」という言葉が出てきます。きょうの聖書の箇所に登場する人物もこの「永遠の命」に関する質問をイエス・キリストに投げかけています。しかも彼は青年でした。少なくともこの青年とイエスにとっては、それは話題の中心になるような大きなテーマだったのです。
 しかし、今のわたしたちが生きている時代を見渡してみると、「永遠の命」について興奮気味に語る青年など見たことがありません。なんとも宗教的に無関心な時代なのかと嘆かわしくも思います。「永遠の命」というものがイエスの時代のユダヤ特有の話題でしかなかったと片付けてしまうわけにはいきません。イエスと青年とのやり取りに耳を傾けながら、永遠の命について、イエス・キリストの教えから学びたいと願います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 19章16節から22節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 きょうの聖書の箇所は一人の青年が投げかけた質問から始まります。
 「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
 この青年の質問は決してイエスを試そうとする質問ではありません。今まで学んできたファリサイ派や律法学者たちのように「イエスを試そうとして」とは書かれていません。青年らしい純粋な動機でこの大きな課題をイエスに問い掛けたのでしょう。
 もっとも、「永遠の命」についての質問は、ファリサイ派の学者にとっても大切なテーマでした。話題という意味では時代の潮流にのったありふれた質問であったかもしれません。
 もともと「永遠の命」という言葉が聖書の中に最初に登場するのはダニエル書12章2節です。そこにはこう記されています。

 「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。 ある者は永遠の生命に入り ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」

 これは世の終わりの時についての預言です。世の終わりの時になって、人々は死者の中から目覚めるのですが、ある者は永遠の命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的になるというのです。永遠の命というのはそもそも来るべき世の終わりにかかわる「命」なのです。もっとも、同じユダヤ教の中でもサドカイ派の人たちは復活や霊魂の存在を信じていませんでしたから、「永遠の命」についても問題となることはなかったことでしょう。しかし、ファリサイ派の人々やその影響を受けた人たちにとってはやはり「永遠の命」の問題は大きなテーマでした。そして、永遠の命を受けるために何をすべきかということもある程度の答えが出ていました。それは、モーセの律法を堅く守るという一言に尽きます。ファリサイ派の人々が律法を熱心に研究するのは、そこに永遠の命を得るための秘訣があるからなのです。
 そういう意味では、この青年の質問に対するイエス・キリストの答えは、正にファリサイ派の人々と同じものでした。

 「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」

 けれども、この答えは青年の心を満足させるものでは決してなかったのです。なぜなら、この青年自身は、小さい時からそのような掟は守っていたからです。「そういうことはみな守ってきました」と言うその青年の言葉には嘘偽りはなかったことだと思います。彼は良識的なユダヤの家庭に生まれ、良識的な宗教教育を受けて、きっとモーセの戒めを真面目に守っていたのでしょう。しかし、それでも何か足りないものを感じながら悩んでいたのです。

 そこで、イエス・キリストはおっしゃいます。

「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 イエス・キリストは貧しい人への施しとご自分に従ってくることをお命じになったのです。貧しい人への施しについていえば、この青年がユダヤ人として宗教教育を受けた人であれば施しをしたことがないとは考えられません。隣人を愛するという戒めには当然、施しをすることも含まれています。イエス・キリストがおっしゃりたかったことは、隣人愛には終わりがないということです。隣人愛の戒めは「何かを成し遂げた」と過去形で表現されるべきものではないはずです。それをしたので永遠の命を得るには十分だといえるものではないからです。
 青年の質問の背景には、永遠の命を得るために「もう十分」という基準があるのだという発想があったのです。しかし、イエス・キリストには隣人愛一つとってももう十分であるという発想はないのです。この質問をしている今も、隣人愛を必要としている人がいるのですから、施しを続けるべきなのです。そのことをイエス・キリストはこの青年に悟らせたかったのです。いえ、そもそも永遠の命を獲得できるほどに人間の隣人愛は十分ではないのです。その足りなさこそ、この青年が自覚すべきことだったのです。

 もう一つイエス・キリストがおっしゃったことは、「ご自分に従ってくる」ということでした。イエスに従うということは、その当時の青年にとっては意味のわかりにくいことだったかもしれません。イエスがまことの救い主であるということはこの青年にはまだはっきりとしたことではなかったからです。この青年にとってイエスは教えを請うべきよい先生であったということは確かです。しかし、自分の救い主であるという考えは全くなかったことでしょう。
 「持ち物を売り払って、その上でわたしに従いなさい」ということは、頼れるべき者をただイエスの内にしか見出さないということです。永遠の命への道は、イエスのうちにこそあるのです。イエス・キリストはわたしたち足りなさをすべて引き受けて、永遠の命を獲得させてくださるお方なのです。永遠の命を得るには何をなすべきか。それはただ救い主であるイエス・キリストにすべてを委ねて従うことなのです。
 キリストは全責任を負ってわたしたちに永遠の命を授けてくださるのです。

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