聖書を開こう 2007年2月8日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 最後の者にも(マタイ20:1-16)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 何かものを読むときに、自分をどういう立場において読むのかということで、書かれていることの受け止め方は随分と違ってきてしまうものです。きょうこれから取り上げようとするイエス・キリストの譬え話は、読み手によって随分と受ける印象が異なる話です。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 20章1節から16節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、1日につき1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、9時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにした。5時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその1人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 今お読みした譬え話の結びの言葉は、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という言葉でした。これは、前回取り上げた聖書の箇所、マタイによる福音書の19章30節の言葉を繰り返した形になっています。

 「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」

 このイエス・キリストの言葉は、ペトロの質問を受けてのことでした。つまり、ペトロは他の弟子たちを代表してイエス・キリストにこう尋ねたのでした。

 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」

 イエス・キリストはこのぺロトの質問に対して、十二弟子という特別な働きの報いとしては、イスラエルの一二部族を治めるという特別な栄誉を約束なさいました。また、イエスの名のために一切を捨てた者としては、他のクリスチャンと同じように、百倍の祝福と共に永遠の命を受け継ぐと約束されたのでした。そして、先ほどの言葉が続くのです。

 「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」

 この最後の言葉は、ペトロの思い上がった質問に少し水を差すような発言です。何しろ何事にも先頭を切ってイエスに従ってきたという自負のあるペトロですから、一番の報いを期待しても当然でしょう。しかし、イエス・キリストは「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とその答えを結ばれたのです。
 そして、さらに、その言葉の意味を説明するために話されたのが、きょうの譬え話です。

 譬え話そのものは、当時のユダヤでよく見かける光景です。少しも難しいところはありません。収穫時期を迎えたぶどう園と広場に溢れる日雇い労働者の姿は、当時のユダヤでは珍しいことではありませでした。もちろん、ここでは譬え話ですから、何か他に言いたい真理がそこには横たわっているわけです。この場合、ぶどう園の主人が神を譬えていることは間違いなさそうです。ですから、ここで表そうとしている事柄は、天の神はどのように報いを与えるお方であるのかということです。
 この譬え話の中には日雇いの労働者たちが何組か登場してきます。それぞれ雇われる時間が違っているのです。ある者は朝早くに雇われてぶどう園で働きます。他の者はそれぞれ9時、12時、3時、そして一番遅い者は夕方の5時に雇われていきます。もちろん、早くから雇われた者の労働時間は後からの者たちに比べればその分長くなっています。ただ長いというばかりか、労働条件も熱さに耐えるということを考えれば、夕方に雇われた者に比べればずっと厳しいものがあります。もちろん、早く雇われたか遅く雇われたかは、能力の差ではありません。たまたま雇い主の目に早くとまった者が早く仕事にありついただけのことです。
 さて、1日の仕事が終わり、賃金の支払いの時間がやって来ました。最後に雇われた者から順番に支払っていきます。もちろん、この順番は譬え話のための順番ですから、当時のユダヤの風習という訳ではありません。ただ、最後に来た者たちへの賃金が1デナリオンであるとすれば、それよりも長く働いた者たちへの支払いがもっと多くなるという期待は当然膨らんできます。ところが、実際に支払われたのは、早くから働いた者にも、残りわずかな時間だけを働いた者にも、皆1デナリオンだったのです。この扱いに黙っていないのは長い時間、暑さに耐えて一所懸命働いた労働者たちでした。しかし、主人の言い分はこうでした。
 まず、1日1デナリオンという約束はきっちりと守っているということです。約束違反をしているわけではありません。実際、その当時の日雇い労働の相場は1日1デナリオンであったといわれていますから、特別にこのぶどう園の主人が賃金を搾取していたわけではありません。
 次に、わずかな時間しか働かない者への支払いは、当時の相場からすれば過剰な支払いであったかもしれません。しかし、それも主人と雇われ人との間の契約であったのですから、その約束を守る主人に第三者がクレームをつけるべきことでもないのです。しかも、その過剰とも思える支払いは、ただ、このぶどう園の主人の気前のよさから出たことなのです。これらの人々が雇われる時期の違いは能力とは関係ないのですから、この憐み深い主人は、誰もが生活の必要を満たせるだけのものを支払ってやりたいと思ったのです。その気前のよさを非難することはお門違いです。
 こうして、イエス・キリストは譬え話を結ぶに当たって、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とおっしゃいます。

 ペトロは先週学んだあの金持ちの青年がイエスのもとを立ち去ったの見て、早くから何もかも捨ててイエスに従った自分の報いの大きさを期待したのでしょう。
 けれども、人間には成し遂げることのできないことを可能にされる神の御心は、最後の者にも同じ報いを与えることなのです。この慈愛に満ちた神の御心をねたんではならないのです。

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