聖書を開こう 2007年3月15日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 真摯な信仰(マタイ21:18-22)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「見掛け倒し」と言う言葉があります。外見は立派なのに中身がたいしたことがないことを言います。外見が立派なだけに期待はずれの失望感も大きなものがあります。
 きょうの話の中に登場するいちじくの木は、正に見掛け倒しのいちじくです。イエス・キリストはこのいちじくの木からどんなことをわたしたちに問いかけていらっしゃるのでしょうか。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 21章18節から22節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

 きょうの聖書の箇所は、イエス・キリストが神殿を清められた事件の次の日の朝の出来事です。ルカによる福音書によれば、イエス・キリストはエルサレムにやって来られてから5日間ほどの間、毎日「日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で」(ルカ21:37)過ごされました。きょうの話の前の晩はオリブ山の東斜面にあるベタニアで夜を過ごされたとマタイ福音書は記しています。ベタニアからエルサレムまでは3キロほどの道のりです。朝早くベタニアからエルサレムに戻ってこられたイエス・キリストは食事をする暇もなかったのでしょうか、空腹を覚えられたとあります。
 ふと見ると、道端には葉の茂ったいちじくの木が生えていたのです。パレスチナではいちじくは年に二回収穫されました、早なりのいちじくは6月頃に、二度目の収穫は8月から9月にかけてです。イエス・キリストは別のところで「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」(マタイ24:32)とおっしゃっています。その言葉からも分かるとおり、いちじくの葉が茂り始めるのは夏の訪れを告げる季節です。
 しかし、きょうの話の場面は過越のお祭りの頃の話ですから、季節は春の頃です。春にいちじくがならないのは当時の人には分かりきったことでした。しかし、このいちじくの木はたまたま一本だけ季節はずれに葉を茂らせていたのです。もしや実がなっているのではと思うのも無理はありません。しかし、その見せ掛けに反して、いちじくの実は一つもなっていなかったのです。
 イエス・キリストはこのいちじくに命じて「今から後いつまでも、お前には実がならないように」とおっしゃいました。すると、いちじくの木はたちまち枯れてしまったというのです。
 これだけを読むと、なんだかイエス・キリストに失望してしまうような話です。まるで自分の空腹を満たすことができなかったのに腹を立てて、いちじくの木に八つ当たりをしているように見えます。しかし、思い出してもみれば、イエス・キリストは荒れ野で40日40夜断食をして空腹を覚えられた時でさえ、自分のために石をパンに変えるような奇跡ひとつなさらなかったお方です。今さら、自分の空腹が満たされなかったことに機嫌を損ねて、自分勝手な奇跡を起こしたとは思えません。第一、そんな奇跡を起こすことができるくらいなら、葉っぱだけのいちじくの木に実を実らせることぐらいできたはずです。
 なぜ、イエス・キリストはこのいちじくを枯れさせてしまわれたのか、このような奇跡は一体何のために行なわれたのか、そこに横たわる深い意味に目を注がなければなりません。
 このイエスがなさった奇跡を理解するためには、ルカによる福音書に記された一つの譬え話がヒントになります。
 ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかったという話です。「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と主人は園丁に命じたのです、園丁は主人に言ったのです。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」
 この譬え話に出てくるいちじくとは、イスラエルの人々を指しています。キリストがやってきて、3年もの間神の国の福音を宣べ伝え、悔い改めを迫っても、決してキリストのもとへと来ようとしなかったのです。

 きょうの話に出てくる葉ばかり茂ったいちじくの木は、この譬え話の中にでてくるいちじくと同じです。神の求めていらっしゃること、悔い改めてキリストへの信仰の実を結ぶことをしない人々を例えているのです。実を結ばないのに、葉ばかりが茂って、見掛け倒しなのです。立派な神殿で毎日犠牲の供え物が捧げられていたかもしれません。しかし「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません」(詩編51:18)という詩編の言葉がすっかりどこかに消え去ってしまっているのです。祈りの家であるべき場所が強盗の巣と化しているのです。神から選ばれたはずのイスラエルが実を結ばない傲慢で不毛な生き方をしていることを嘆いていらっしゃるのです。

 さて、この奇跡を目の当たりにした弟子たちは驚いてイエスに尋ねました。
 「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」
 この弟子たちの質問に答えてキリストはおっしゃいました。
 「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
 この弟子たちとイエスとのやり取りは、一見、前半の話と結びつかないような印象を受けます。見掛け倒しの信仰、実を結ばない信仰に対する強い非難の行動が、弟子たちのつまらない質問で話が違う方向へ展開して行ったように見えるかもしれません。
 けれども、イエスの答えには前半の実を結ばないイスラエルを例えたいちじくの木の例えと深いかかわりがあるのです。
 信仰は神への絶対的な信頼そのものです。そして、祈りはその神への信頼の具体的な現われです。イスラエルが陥った見掛け倒しの信仰は、まさに口先では神を敬いながら、全信頼を神に置こうとしない生き方だったのです。葉ばかりが茂るのは神よりも自分への信頼を優先させていたからなのです。
 そうであればこそ、キリストは弟子たちに神への完全な信頼を求めていらっしゃるのです。そうでなければ、わたしたちもまた葉っぱばかりの見せ掛けの信仰で終わってしまうのです。

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