聖書を開こう 2007年7月19日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 小さな者への奉仕はキリストへの奉仕(マタイ25:31-46)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストの言葉の中に「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」というのがあります。文字通りに考えれば、それは無理なことです。どちらもわたしの手なのですから、片方の手がすることは、反対の手にも知られてしまうのは当たり前です。もちろんそれはもののたとえです。それぐらい、人に見られるための施しに気をつけなさいということです。
 しかし、ものの例えとはいっても、見られるためではない慈善の行い、報酬を求めない愛の業を、イエス・キリストがどれほど重んじていらっしゃるのかは、きょうこれから取り上げようとする聖書の箇所に現われています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 25章31節から46節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 少し長い箇所でしたが、きょう取り上げた箇所も、大きな文脈は、終末についての教えという流れの中で語られた教えです。この譬え話は「羊と山羊の譬え話」とも呼ばれていますが、神の国の完成の時には、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、すべての国民が二つのグループに峻別されると言うのです。一つのグループは約束された神の国を受け継がせていたき、永遠の命にあずかることができるグループです。もう一つのグループは神の国から締め出され、永遠の刑罰に定められるグループです。非常に厳しい教えですが、この二つの場所以外に人が最後に行きつく場所をキリストは語っていらっしゃらないのです。
 けれども、このキリストの話はただ単純に、善人は天国へ、悪人は地獄へ、ということを教えているのではありません。また、いいことをすれば必ずその報いがあるということを教えているのでもありません。その点をよく注意して読む必要があるのです。

 まず、この話を読むための大きな前提は、この話を聞いているのは少なくとも先ず第一にキリストの弟子たちであるという点です。もう少し押し広げたとしても、前提とされている聞き手は、キリストを信じる者たちです。つまり、この譬え話は山羊が羊になるための方法を教えているのでもなく、羊が山羊に変わる危険を教えているのでもありません。もし、この箇所を読んで、人間は行い次第で羊にもなれれば、山羊に落ちてしまうこともあると考えるのだとすれば、それはイエス・キリストの教えの主旨からは遠く離れてしまうことになります。また、そのような考え方は聖書全体の教えとも一致しなくなってしまいます。
 むしろ、信仰こそが人に救いをもたらす手段であり、救われた結果が、善き行いを生み出すのです。この譬え話の中心点は、信仰に生きる者がどのように終末の時までを過ごすべきなのかを教えているのです。そういう意味で、この譬え話は終末に向かう信仰者が、どのように目を覚まし、どのように忠実で賢くあるべきなのかを譬え話を通して語ってきた今までのイエスの教えと同じ流れにあるのです。

 さて、この譬え話が大変興味を引くのは、王の言葉を聞いてきょとんとしている人々の反応です。王から「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と聴かされても、「待ってました。当然です」とは思わないのです。もちろん、きょとんとしていたのは「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませてくれたからだ」という王の言葉の意味が理解できなかったというのが大きな理由かもしれません。それにしても、まったく思い当たる節もないというほどに、報いを期待しない生き方だったことがその態度に示されています。
 同じように、山羊の側に立つ人々の反応もきょとんとした反応でした。彼らがきょとんとした理由は、羊の側に立つものたちとは正反対なものでした。彼らは自分が救われるのを当然と思っていたのです。少なくとも落ち度なく生きてきたという自負心が言葉の端々に見え隠れしています。相手が王であることがわかっていれば、惜しみなく尽くしたに違いありません。そうです。報いを得るためには何でもしてきたという自信があったのです。もし、彼ら山羊の側に立つ人たちが王から「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませてくれたからだ」と聴かされたならば、「いつ、そんなことをしましたか」などと思いもしなかったことでしょう。
 キリストが信仰者に求めていらっしゃるのは、報酬を求めての愛の行いではないのです。むしろ、救いという大きな恵みをいただいたことへの感謝として、神の愛に動かされて生きる生き方なのです。それは神へ向けられる直接の愛ばかりではなく、神がお造りになった人間への愛を通しても示されるものなのです。
 終末に向かって歩むクリスチャンに求められているのは、小さな隣人に仕え仕えることで神からいただいた愛を分かち合うことなのです。報いを期待してではなく、恵みに感謝して生きることこそ、終末に向かって歩むクリスチャンに求められていることなのです。

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