聖書を開こう 2007年9月13日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: ペトロの失敗とキリストの愛(マタイ26:69-75)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読むたびにいつも思うことは、人間の弱さ、人間の罪深さに対して、聖書は少しも手加減することなく正直にその現実を描いているということです。後に教会の指導者となる人物についてさえ、その弱さを控え目に描くということをしません。もし、人間の罪深さを控え目に小さく描くなら、神の救いの恵みもその分だけ小さく受け取られてしまうからです。人間の弱さを正直に描くのは、ただ罪の現実を暴くということが目的なのではなく、その罪の現実に立ち向かわれる神の恵みの大きさを描くためでもあるのです。
 きょう取り上げるペトロがキリストとの関係を否定する場面も、そこに神の救いの恵みの大きさを見て取ってこそ、このことが描かれる理由を理解することができるのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 26章69節から75節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 前回は逮捕されたキリストが、ユダヤの宗教裁判を堂々とお受けになる様子を学びました。そこに描かれたキリストの姿は罪を犯したみすぼらしい犯罪人の姿ではなく、むしろ少しも動じることがない権威に満ちた姿でした。
 きょう取り上げるのは、そのキリストがいらっしゃる場所からは目と鼻の距離の場所で起った出来事です。お互いに相手をはっきりと確認することができるくらいの距離です。

 ゲツセマネの園でイエス・キリストは弟子のユダによって裏切られ逮捕されたとき、マタイによる福音書は「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)と記しています。
 しかし、弟子の一人、ペトロだけは一旦は逃げ去ったのかもしれませんが、「遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた」(26:58)のです。
 そういう意味では、ペトロは最後の晩餐の席上で自分が言ったことを曲がりなりにも守り抜いたといえるかもしれません。

 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26:33)

 キリストや弟子たちの前でそう言ったペトロは、今、裁判にかけられているキリストを、そう遠くない場所から見ていたのです。
 しかし、思いもかけない人から思いもかけない言葉をかけられてペトロはすっかり気が動転してしまいます。

 「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」

 ペトロはこの言葉にとっさに皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言ったのです。
 イエス・キリストがご自分を訴える者たちの前で堂々とした態度を取られているのと対照的です。不意打ちを食らった言葉だったので動揺してしまったのでしょう。キリストがゲツセマネの園で「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(26:41)とおっしゃった言葉を自分のこととして真剣には受け止めていなかったので、何の心の準備もできていなかったのでしょう。
 ペトロはさらに別の人たちから二度にわたって詰問されるのですが、そのたびに動揺を深めるペトロの様子が見事に福音書に描かれています。

 「そこで、ペトロは再び『そんな人は知らない』と誓って打ち消した」「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた」

 誓った上にのろいの言葉さえも口にしながら、何度何度も否定しつづけたのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:35)と豪語したあのペトロの勇ましさは見る影もありません。罪の上塗りをするかのように、ますます意固地になってキリストとの関係を否定し始めたのです。

 「するとすぐ、鶏が鳴いた」とマタイ福音書は書き記します(26:74)。キリストが予告なさったように、鶏が鳴く前にペトロは三度、キリストを知らないと否定したのです。同じことを記したマルコ福音書では、鶏が二度鳴く前にペトロは三度キリストを否認すると予告されています。そして、その予告どおり、一度目の否定のすぐ後で鶏が一度鳴きます。そのときキリストの言葉を思い出していれば、二度も三度も重ねてキリストを否定することはなかったかもしれません。しかし、二度目に鶏が鳴くまでペトロの心は自分の過ちに目覚めなかったのです。
 鶏の声と共に我に返ったペトロは、「そして外に出て、激しく泣いた」と聖書に記されます。もちろん、ペトロが泣いたのは鶏が鳴いたからではありません。鶏の鳴き声にキリストの言葉を思い出したからです。そのキリストはペトロの弱さをすでにご存知じのお方だったのです。ペトロが「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と威勢のよいことを言っている時に、すでにペトロの弱さを見抜いていらっしゃったのです。
 そして、そのキリストは、ルカによる福音書によれば、このペトロの弱さを事の起る前から知って、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と予め声をかけてくださったのです(ルカ22:32)。ペトロが思い出したのはそのキリストの言葉も含めてのことでしょう。

 イエス・キリストはわたしたちの弱さ、罪深さを誰よりもよくご存じのお方です。この罪深い者のために祈り、鞭打たれることに耐え、十字架の死に至るまで救いの業に進まれるお方なのです。

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