BOX190 2008年1月30日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 治療と癒しについて ハンドルネーム すげこまさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・すげこまさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生こんにちは。毎日夜9時半からAMラジオの1566kHzで放送されているFEBCを通じて毎週楽しみに聴いています。
 私は鬱病になってしまい、2002年1月から精神病院に通っています。心の病が薬などで治るはずはないと思っていましたが、ダメモトで縋る様な思いで、医師がクリスチャンの病院を探しました。医師がクリスチャンなのに拘ったのは、クリスチャン同士なら、私の心を、クリスチャンでない医師よりも理解してもらえ易いと思ったからです。そして、病院の名前が聖書に由来するものを見つけたので、此処の医師はクリスチャンかもしれないと思い、行ってみた所、案の定医師はクリスチャンでした。
 薬の効果で一時的には回復傾向に向かいましたが、2003年9月から休職をしました。その後、休職が許可されている9ヶ月を過ぎても、完全に治癒していないとの医師の判断で、2004年5月末日付けで失業してしまいました。今はなんとか貯金を切り崩しながら治療を続けています。2003年11月、私は食事も摂れないほどの精神的混乱に陥り、診察の時に医師に「苦しいので祈ってください」とお願いしました。しかし医師は「私は精神科医で、あなたを治療するのが私の役目です。祈るのは牧師の役目なので、私は祈りません」と言われました。
 クリスチャンではない会社勤めの知人に話したところ、「そんなの当たり前だ。医師の言っている事は正しい」と言われました。
 『治療』とはつまり『有機物の故障した部分を修理する作業』なのですね。
 ところでイエスは多くの人の病気を治していますが、その行為は『治療した』ではなく『癒した』と書かれています。知人によると新約聖書の原本であるギリシャ語は、治療も癒しもセラペウオなので、日本語訳は意訳ではないだろうか?とのことでした。本当に意訳なのでしょうか?よろしくお願いします。」

 すげこまさん、お便りありがとうございました。長い間病気と戦ってこられたこと、ほんとうに大変な毎日を過ごされて来られたのだと思いました。何よりも長い闘病生活の中で、思うように回復が見られないことはどんなにお辛いことでしょうか、胸が痛む思いがします。そんな中にあっても、ラジオ番組を聴いてくださり、神様のこと、イエス様のことを思い巡らせてくださったこと、ほんとうに嬉しく思います。
 確かにお医者さんの仕事は病気を治すことですから、たとえクリスチャンのお医者さんであっても、診療中に患者さんのために祈ったりはしないものかもしれません。医療行為と宗教行為をきちんとわきまえていらっしゃるという点で、そのお医者さんのおっしゃったことは十分理解できます。しかし、だからといって、そのお医者さんが私生活の中で自分の仕事や患者さんのために祈っていないとは思うべきではないでしょう。どんな職業であれ、すべてが神様から委ねられたものとして、畏れの気持ちをもって一生懸命その働きにいそしむことはクリスチャンにとって当然のことだからです。

 さて、すげこまさんからいただいたご質問は「治療と癒し」についてです。日本語で「治療」というのと「癒し」というのは、若干のニュアンスの違いがあることは否めません。ちなみにこの二つの単語を国語辞典の権威、広辞苑でひくとこう記されています。

 「治療」…病気やけがをなおすこと。また、そのために施す種々のてだて。療治。
 「癒す」…病気や傷をなおす。飢えや心の悩みなどを解消する。

 わたしが調べた広辞苑は第4版のものですので、残念ながら「癒し」という名詞の形では見出し語にあがっていません。ただ、動詞の形でも「治療する」のと「癒す」のとではニュアンスの違いがあります。確かに「癒す」の第一の意味は「治療する」というのと同じで、文字通り病気やけがをなおすことです。しかし、「癒す」という言葉には、文字通りの病気やけがを治すことばかりではなく、心の悩みを解決する、精神的な意味での飢えや渇きや疲れを解消する、という場合にも使われます。

 もっとも、「医術は仁術である」という言葉があるとおり、病気の治療と心の癒しは厳密に区別できない側面もあるのかもしれません。近年では医者としての資質は、ただ単に学問的な知識や医療の技術だけではなく、患者に接する時の心のあり方や態度もそこに含まれるとする考え方が再び注目を集めるようになっていることも事実です。

 では、聖書の中ではどうなのでしょうか。とくにイエス・キリストの場合はどうだったでしょうか。イエス・キリストが多くの病気を癒されたという記事は福音書のあちこちに見受けられます。たとえば、マタイによる福音書4章23節以下にはこう記されています。

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」

 そこに使われている「いやす」という言葉は、すげこまさんがおっしゃるように「テラペウオー」という動詞です。ちなみに、新約聖書にはもう一つ「イアオマイ」という言葉も使われています。

 「テラペウオー」というギリシャ語ですが、この言葉の本来の意味は「仕える」という意味でした。そこから転じて「病人の世話をする」「治療をする」などの意味を持つようになりました。新約聖書ではいわゆる「仕える」の意味でこの言葉が使われることはありません。ただ、言葉の発展的な意味では、病気の癒しと病人の世話をすること、病人に仕えることは、切り離して考えることができません。そういう意味では、イエスがなさる癒しは体の癒しということばかりではなく、魂も体も含めてその人に仕え、その人を癒すことであったということができるでしょう。
また、先ほど引用したマタイ福音書の中に出てくる「テラペウオー」という言葉は。悪霊にとりつかれた者についても使われています。つまり、純粋な医療行為よりももっと広い意味で「テラペウオー」という言葉が使われているのです。マタイ福音書12章28節でイエス・キリストは「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」とおっしゃっていますが、イエスの行なっている悪霊の追い出しは、神の国の到来を証しする行為であるということができます。従って、悪霊に取り付かれたものを癒すということは、単なる治療や癒しを超えて、神の国の到来を告げ知らせる行為として、イエスは癒しをなさったということなのです。

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