キリストへの時間 2008年5月18日(日)放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 光である神

 おはようございます。山下正雄です。
 古今東西を問わず、太陽はしばしば神として崇められて来ました。エジプトではラーが、バビロニアではマルドゥクが、ギリシアではヘリオスが、それぞれ太陽神として崇められていました。日本でも天照大神が太陽崇拝の一つであると考えられています。
 強烈な光を放ち、直視することができないという太陽の姿は、なるほどそれ自体が神々しく感じられるのかもしれません。あるいは、太陽がもたらす明るさと暖かさは、それこそ万人に差別なく与えられる恵みです。その恵みをもたらす太陽を神として崇めたくなる気持ちは理解できなくもありません。特に日本では「お天道様が見ている」という言い方で人間に道徳心を与える存在でもあります。

 しかし、聖書の世界では太陽そのものは神とは呼ばれません。むしろ、その太陽さえも聖書の神によって造られたものの一つに過ぎないのです。その太陽が放つ光も同じように神が最初に造ったものであると聖書は一番最初のページでそう語っています。
 けれども、目には見ることのできない神を、聖書はしばしば光り輝くお方であるように描いたり、あるいは神は光であるとさえ語っています。
 ヨハネはその手紙の中でこう言っています。

 「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(1ヨハネ1:5)

 ここで神が光であるといわれているのは、もちろん比ゆ的な意味でのことです。光と闇とは対照的な世界です。聖書が言う闇とはしばしば人間の罪の世界を指しています。あるいは悪が満ち溢れる世界といってもよいでしょう。そういう罪の世界に住む人間のことを聖書はこう描いています。

 「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」(エフェソ4:17-18)

 聖書の神はそういう暗闇の世界に住む人間に対して、その知性を照らし正しい理解と判断力を与え、人間の本来の生き方を示してくださいます。そういう意味で神は光なのです。
 闇と光は相容れないものです。闇でありながら同時に光であることはできないのです。闇の中に住みながら、同時に光に照らされるということはありえないのです。少なくとも光を浴びている時点で、もはや闇の支配からは解放されているのです。闇と光は対照的ですが、しかし同じ力を持っているのではありません。一筋の光が照るだけで闇はもはや闇ではなくなってしまいます。一筋の闇という言い方そのものがありえませんし、あったとしても、一筋の闇が光を追い出すことなど不可能なのです。
 ですから、まさに神は罪がもたらす暗闇の世界に対して圧倒的な力を持つ光に例えられるのです。神は光として闇に終止符を打ってくださるお方です。神は光としてもはやわたしたちをいつまでも暗闇の世界に放置したりはなさらないのです。一度神の光が照らされるならば、もうそこは闇の世界ではないからです。
 「神は光であり、神には闇が全くない」と述べたヨハネの手紙はその続きでこう記しています。

 「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」

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