キリストへの時間 2008年9月7日(日)放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

牧田吉和(山田教会牧師)

牧田吉和(山田教会牧師)

メッセージ: たとえ、貧しさの中にあっても

 おはようございます。爽やかにお目覚めでしょうか。山田教会の牧田吉和です。今朝から、4回にわたってご一緒に聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。
 今朝の聖書の言葉は旧約聖書の「箴言」の短い言葉です。

 「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」

 この場合の「一切れのかわいたパン」とは、パンをひたすスープもワインもない貧しさを意味します。しかし、たとえ、パンをひたすスープがないほど貧しくても、そこに平和があるなら、ごちそうと争いが満ちた家よりも勝っているというのです。このような聖書の言葉に私は強く心が引かれます。

 私は中学2年の時、教会へ行く途中の友人に偶然に出会い、その友人に誘われて初めて教会の門をくぐりました。それから足掛け7年を経て、大学3年の時に洗礼を受けました。
 その間の7年間、本当に親身になって真実を尽くして聖書について教え、信仰に導いてくれたご夫婦がいました。御主人が絵描きで、ご夫人が詩人の御夫婦でした。絵描きと詩人と言っても、当時はまったくの無名で本当に貧しいご夫婦でした。しかし、7年間、身近に、お二人が神を仰ぎ、祈り合いつつ、平和でしかし情熱と喜びをもってそれぞれの課題に取り組んでおられる姿を見て、私は心が揺さぶられました。
 当時、正直言って、ノンクリスチャンの家庭に生まれた私には、聖書の言葉をどれほど教えられてもよく理解できませんでした。しかし、その御夫婦の生き方を見ていて、自分もこのような生き方をしたいと強く願うようになりました。聖書がこのような生き方をもたらし、生きることの喜びと平安を与えてくれるのであれば、信仰の道を歩もう。そう考えて洗礼を受ける決意をしました。
 聖書のことが本当に解るようになったのは、実際には洗礼を受けて数ヶ月経ってからのことでした。

 今日の時代、私たちのまわりにはごちそうが溢れ、しかし争いに満ち溢れた家が大きな問題となっています。そうであればあるほど、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」という聖書の言葉は、その御夫婦の姿と重なって、私の心に迫ってくるのです。今の時代に聞くべき言葉だと、私には思えるのです。

 けれども、たとえ、一切れの乾いたパンであったとしても、なぜそこに平和があるのでしょうか。その理由は一体何でしょうか。
 「箴言」は別の個所で「わずかな物をもっていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる」(15:16)と言っています。「恐慌」とは「恐怖」という意味です。つまり、たとえわずかなものしか持っていなくても、生ける神を畏れ敬いつつ、神の愛の下で生きるならば、多くの財宝を持ち、怖れと不安の中で生きるのに勝っているというのです。

 けれども、神の愛とは一体何でしょうか。
 聖書は「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(ヨハネの手紙第一3:16)と言っています。神は、私たちを救うために、ご自分の独り子であるイエス・キリストを十字架につけるほどまでに私たちを愛してくださいました。神の愛はこの事実によって示されています。キリスト教信仰とはイエス・キリストの十字架に示された神の愛を信じることです。この神の愛の下に、祈りつつ、神と共に生きる時、私たちの心は満たされ、平安なのです。
 「箴言」はまた、「心に楽しみのある人には毎日が宴会である」(15:15)とも言っています。たとい、かわいたパン一切れであっても、神を敬い崇め、神と共に歩む人には、心の楽しみが与えられ、その食卓には宴会の喜びがあるというのです。

 恐らく、このように申し上げますと、「これは理想論であって、現実はそんなに甘くない」という声も上がることでしょう。しかし、現実を重んじ、豊かさと御馳走を求めて生きてきた私たちの中に、どうして争いは絶えず、どうして私たちの心はこれほど満たされないのでしょうか。
 「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」という言葉は、むしろ今日私たちが見失っている最も大切な事を教えているのではないでしょうか。この言葉を信じ、神を信じ、神を畏れ敬って、神と共に歩む道を歩んで頂きたいと思います。その人は、「心に楽しみのある人には毎日が宴会である」という言葉を味わい知ることが許されると私は堅く信じています。

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