聖書を開こう 2008年3月13日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 柔和な心で(ガラテヤ6:1-5)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人を正しい道に導くというのはとても難しいような気がします。時として、正しい道に導いているようで、実は自分の思いどおりに他人を自分の支配下に置こうとしているだけだったりすることがあります。あるいは、自分のことを棚に挙げて、相手だけを正しい道に導こうと躍起になることもあるでしょう。それは結局のところ、完璧な人間などいないのですから、誰にもこの務めは果たすごとができないという結論に至るのかもしれません。
 しかし、聖書はだからといって、「他人のことには一切干渉しないで、人それぞれ好きなようにさせなさい」とは言わないのです。
 きょうの聖書の箇所は、誰かが罪に陥った場合、どう対処するのか、あるべき具体的なアドバイスが記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 6章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、”霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

 きょうの箇所は、ガラテヤの信徒へ手紙全体の中でどういう位置を占めるのか、一見分かりにくいかもしれません。
 なるほど現行の聖書には章と節とが割り当てられていますから、ここで新しい話題に内容が移行しているように思えなくもありません。もちろん、パウロ自身は自分で手紙に章や節を振ったわけではありませんから、これは後の時代に、印刷聖書が出回るようになってから便宜的につけられたものです。
 内容をよく読んでみると、前の章から受け継いでいる流れをいくつか見て取ることができます。

 6章2節後半の「そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」という表現は、5章14節の「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」という言葉を思い起こさせます。
 同じように6章4節の「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」という言葉は、5章の最後の言葉「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」という言葉に繋がっているように思われます。
 さらにこの5章最後の言葉は、さかのぼって5章15節の言葉「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」…ということと内容的につながりがあります。
 こうして前にさかのぼってたどっていくと、きょうの箇所も5章1節で言われている「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい」という勧めにたどりつくのです。つまり、きょうの勧めの言葉もキリストが勝ち取ってくださった自由と深くかかわる問題なのです。
 パウロはキリストが勝ち取ってくださった自由を罪を犯すための機会とはせずに、愛によって互いに仕え合うようにと勧めました。なぜなら、隣人愛は律法を全うするからです。そして、前回学んだとおり、隣人愛に生きるためには、聖霊の導きに謙虚に信頼することが大切です。結局聖霊の導きに従わない肉の生き方こそが隣人と自分を食い物にしてしまうのです。
 ですから、パウロは5章を結ぶに当って「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と勧め、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」と戒めているのです。

 しかし、聖霊の導きに従って歩むべきであるという理想は、しばしば現実の人間の弱さによって裏切られることがあります。その現実に目をつぶることはできません。現に教会の中には不注意にも罪に陥ってしまう人たちがいます。そうした人たちとどうかかわっていくのか、それがきょう取り上げた箇所が扱っている問題です。

 もちろん、その場合取りうる選択肢としては、そのような人たちと一切かかわらないために、そういう人たちを切り捨ててしまうということもあるでしょう。しかし、パウロはその選択肢を勧めません。むしろキリストにある共同体としての完全さを保つために、兄弟が正しい道に立ち返るように努力することを勧めているのです。それは聖霊に導かれている者の務めであるからです。「聖霊に導かれている者」というのは何も特殊な人間を指しているわけではありません。聖霊の導きに謙虚に従うことを決心し約束している者はみな聖霊に導かれている者です。言い換えれば、それはクリスチャン一人一人の務めなのです。
 ただ、その場合、上からの目線で指導するのではなく、柔和な心でするようにとパウロは勧めています。なぜなら、自分自身も同じ誘惑に惑わされる可能性がまったくないとはいえないからです。指導する者が同じ罪に陥らないように、自分自身に気をつけながら、謙遜で柔和な態度で、相手の重荷を自分の重荷のように背負い、相手の弱さに共感することが大切なのです。
 誰かを指導するということはややもするとその人に優越感をもたらすものです。しかし、パウロは自分自身を吟味してみる謙虚さを勧めています。

 「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」

 罪に陥った兄弟を正しい道に立ち帰らせるという勧めのことばは、決して自分を棚に上げて、相手の落ち度を暴くことではないのです。むしろ、自分の弱さにも気がつき、互いに相手の重荷を担い合い、正しい道に立ち返る努力をすることです。

 キリストは自由を得させるためにわたしたちを召してくださいました。その自由を隣人を愛する機会のために用い、互いに弱さを負い合うときにこそ、真の意味で律法が全うされるのです。

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