BOX190 2009年4月29日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 神の恵みと聖霊の違いは? 京都府 S・Sさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は京都府にお住まいのS・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「神の恵みと聖霊の違いはどこにあるのでしょうか?
 キリスト者が神に祈るのは神の恩恵を求めるからだと聞いていますが、神が信者に与えるのは聖霊ではないでしょうか? またキリスト教において恩恵という場合、受肉や奇蹟、また十字架による死と復活もこれに含まれるため、聖霊との区別がいまいちよくわかりません。
 どうかご教授願いいたします。」

 S・Sさんいつも番組を聴いてくださりありがとうございます。お便りを読ませていただいて、初めは何のことだろうと思いました。今でもS・Sさんのご質問の意味を正しく把握できているかどうか自信がないのですが、こんなことではないかと思っています。

 イエス・キリストの言葉の中に「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とあります。ルカによる福音書11章13節の言葉です。
 神に求めるというのは、祈りを通して求めるのですが、その祈りが求めているものは、神の恩恵以外の何ものでもありません。その神の恩恵を求める祈りの答えは、神が「聖霊を与えてくださる」ことであるとイエス・キリストはお答えになっているのですから、神の恩恵とは結局のところ、「聖霊」ご自身のことではないのか、というのがS・Sのお考えになっていることではないかと受け止めさせていただきました。
 また、キリストの受肉も奇跡も、また十字架も復活も、どの一つをとっても神の恵みの業であることは言うまでもないことです。どの一つをとってみても、罪人である人間が当然の権利として期待できる事柄ではありません。神の恵みと憐みによって、キリストはこの世に遣わされ、救いの御業を成し遂げられたのです。ですから、受肉も奇跡も、また十字架も復活も、どの一つをとっても神の恵みの業であると考えることは正しいことです。
 その一方で、聖書はこれらの出来事と聖霊の働きが密接であったことを証言していることも確かです。
 例えば、天使がヨセフに告げたことは「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」ということでした(マタイ1:20)。受肉は聖霊の働きがなければ起りません。あるいは、様々な奇跡に関して、イエス・キリストは「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)とおっしゃって、イエスの行う奇跡が、神の霊によるものであることを証しています。さらに、パウロは手紙の中で御子イエス・キリストの復活について、「(御子は)聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ1:4)と記して、復活と聖霊との関係を示しています。
 こうした聖書の記述から、S・Sさんは、恵みと聖霊の区別についての疑問をもたれたのではないかと推測いたしました。

 そもそも、聖書の中で「恵み」という言葉は、救いの契約に関わる用語です。その前提には人間は罪人であるという厳然とした事実があります。人間が罪人であるという意味は、人間が神の律法に違反しているということばかりではなく、神の律法の要求を自力では満たすことができないということも含んでいます。従って、人間が救われるとすれば、それは当然の権利や報いとしてではなく、神の側の一方的な恵みと慈しみによるよりほかはないのです。神は、値なしに、信じる信仰によってだけ救いを与えようとご自分の民と契約してくださったのです。これが、聖書のいう「恵み」です。エフェソの信徒への手紙の2章8節で「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」と言われているとおりです。

 さて、この神の恵みによる救いの計画は、イエス・キリストがやって来て下さったことによって、頂点に達しました。パウロはその手紙の中でこう言っています。

 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(2コリント6:2)

 ところで、イエス・キリストの成し遂げてくださった救いの御業は後にも先にも一回限りのものです。旧約時代の犠牲の供え物のように繰り返される必要はありません。一度の十字架と一回の復活で必要なすべての救いの業を成し遂げられたのです。それでキリストは今、天に昇って父なる神の右に座しておられます。
 しかし、キリストは決して遠くはなれておいでになるのではなく、ご自身のもとから聖霊を遣わしてくださって、ご自分の成し遂げられて救いにご自分の民があずかることができるようにと導いていらっしゃるのです。
 「恵みにより、信仰によって救われる」とはいっても、「イエスは主である」と告白できるのは、人間のちからではなく、聖霊の働きであると聖書は語っています(1コリント12:3)。そういう意味で救いは神の賜物(ギフト)なのです。
 つまり、聖霊はキリストが勝ち取って下さった救いを私たちに確実に適用されるようにと働いて下さるお方なのです。聖霊がわたしたちを新たに生まれ変わらせ、心の目を開き、キリストを信じる心を抱かせてくださるのです。人間が救いへといたるプロセスの中で、聖霊が果たす役割は、目には見えませんが、とても大きなものであると言うことができます。聖霊が人間に働きかけてくださらなければ、どんなに大きな救いの恵みをキリストが勝ち取ってくださったとしても、それはそのままになってしまうのです。

 しかし、キリストはまだ弟子たちと地上を歩まれていたそのときから、やがて聖霊をお遣わしになることを弟子たちに約束してくださっていました(ルカ11:13、ヨハネ7:39、14:15-18他)。そして、約束してくださった通りに、聖霊が信じる者に与えられたのです。いえ、イエスを主でありキリストであると信じることができること自体が聖霊が与えられた証拠なのです。

 こうして、聖霊ご自身が与えられているということ自体が恵みに他ならないのですが、その与えられた聖霊によって、キリストが勝ち取ってくださった救いの恵みは、確実にご自分の民にもたらされるのです。

 S・Sさんの疑問に正しくお答えできたかどうか自信はありませんが、どうぞ少しでも不明なことがありましたら、いつでもメールください。また、番組の中で取り上げさせていただきます。

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