BOX190 2009年7月22日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 素朴な疑問です ハンドルネーム 少年Aさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・少年Aさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「いきなりですが、素朴な疑問です。クリスチャンホームに育った自分ですが、神様のことを考え始めると、わけがわからなくなります。神の存在を否定はしませんが、納得できないことだらけです。
 キリスト教では神様がすべてをご計画していると聞きます。それならどうしてすべての人が幸せになるようにご計画しなかったのでしょう。
 また、本当に神様がすべてのことをご計画しているのだとしたら、そのご計画を知ることはできないのでしょうか。自分が将来何になるのか、それがわかれば進路のことで悩んだりはしなくなるはずです。
 どうぞわたしの質問にお答えください。」

 少年Aさん、お便りありがとうございました。素朴な疑問とありましたが、素朴な疑問ほど簡単には答えることができない疑問です。答える前から、こんなことを言ってしまっては、せっかくお便りを下さったのに失望させてしまうかもしれません。
 人間には疑問に感じられることがたくさんあっても、それについての答えがすべて理解し納得できるとは限らないのです。神の知恵と人間の知恵が同じであったとしたら、きっとすべての疑問に答えを見出すことができるのでしょう。しかし、そもそも神の知恵と人間の知恵が同じであるとしたら、神など頼る必要もなくなってしまうでしょう。

 まず、最初の疑問ですが、神様がすべてをご計画しているのなら、何故、みんなが幸せにはならないのでしょうか。
 ここには少なくとも二つの大きな問題があります。一つは、ほんとうに神様がすべてをご計画しているのかどうか、という問題です。もし、そうだとしたら、その事実を人間はどうやって知ることができるのでしょうか。
 もう一つの問題は、みんなが幸せになる、というのは具体的にどういう状態のことを言うのでしょうか。幸せというのは人の心の中にある感情のようなものなのでしょうか。それとも、客観的な基準があるのでしょうか。

 神様のご計画があるのかないのか、これはある人が計画を持っているのかいないのか、それを知るのと同じくらい難しい話です。もちろん、本人が正直に答えてくれれば話は別です。
 キリスト教が神のご計画を信じているのは、一つには神が聖書の中でそう語っているからです。神はいきあたりばったりのお方ではなく、起ることを予め計画され、それを実現されるお方です。
 神はおっしゃっています。

 「わたしは初めから既に、先のことを告げ まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。 わたしの計画は必ず成り わたしは望むことをすべて実行する。」(イザヤ46:10)

 おそらく、少年Aさんもそのことを聖書から学んで知ってはいるのだと思います。実際、神がすべてをご計画していらっしゃるという知識は、わたしたちが神を観察した結果得た知識ではありません。神ご自身が聖書でそのように語っているので、そう信じているのです。

 ところが、現実の世界を見ると、どうも神の計画はうまくいっていないと考えるのが人間です。人間の知恵でこの現実を分析すると、大抵は三つか四つぐらいの結論になってしまうようです。一つは、だから神そのものがほんとうはいないのだと考えてしまう結論です。
 しかし、神がいると考える立場を捨てないとすると、別の結論も出てきます。神は存在するがご計画はまったくないか条件付のものである、という結論になるか、あるいは計画は立てても実行することができないと言うことになってしまうか、さらには神はみんなが幸福になることを願っていないという結論になるのです。

 しかし、そうした人間の分析は、どれ一つをとっても聖書が語っている、ご計画を立て必ず実行する神の姿とは相容れないものです。そもそも、人間の限られた知恵を神に当てはめてしまうことが正しいのか、そこが大きな問題なのです。

 しかし、それにしても神は人間が幸福になるようにとご計画されてはいないのでしょうか。そのようにはご計画されていないという判断は、いつだれがどういう判断基準でするものなのでしょうか。
 確かに、食べるものがあって、着るものがあって、住むところがあることが、最低限の幸せだとしたら、それすらも満たされない人がいるという現実は否定できません。あるいは、十分な医療を受けて健康でいつまでも生きられることが幸せだとしたら、その恩恵を十分に受けられない人たちがいることも否定できません。しかしその逆に、これらのすべてのことが満たされても、それでもまだ、幸福感に浸れない人もいるのも事実です。そうかと思えば、これらの幸福の条件が揃っていないのに、それでも幸せだと思う心を持っている人もいるのも事実です。
 つまり、人間の幸福感(幸福観)そのものがあやふやなものなのです。幸福感(幸福観)自体があやふやなものなのに、どうしてその実現について神の計画を判断することなどできるのでしょうか。人間のほんとうの幸せをご存知なのは、他ならない神様ご自身です。その神様が万事を益となるようにご計画し、導いてくださっています。ただ、残念なことに、人間にはしばしばそれが納得できない現実のほうが目に付いてしまうと言うことなのではないでしょうか。

 さて、もう一つの問題は、神様が一人一人に対してもっていらっしゃるご計画を人は知ることができないのか、ということです。

 それを知る決定的で確実な方法は残念ながらありません。主観的だといわれるかもしれませんが、神様のご計画が何であるか、祈り求めながら歩むと言うより他はありません。
 考えても見てください。もし、自分に対する神の計画を知って、いったいどうすると言うのでしょうか。知ることができれば、将来の進むべき道で悩まなくなると言うのは本当でしょうか。それは楽しみにしていた映画の結末を先に見た人から漏らされるのと同じで、それでは生きる楽しみさえなくなってしまいます。ワクワクしたり、ドキドキしたり、悩んだりして生きるというのが人間の生き方なのではないかとわたしは思っています。
 知っても変えることができないご計画なら、知ることは返って残酷であったり、退屈であったりするはずです。しかし、変えることができるご計画なのであれば、変えてもまた誰かがそれを変えてしまうのですから、聞いたところで意味がありません。
 知っていて本当に意味があることは、神が自分にどんなご計画を持っていらっしゃるのかではなくて、どんなご計画があろうとも、神の愛と正義が自分の人生に溢れるようにと神が約束してくださっていると言うことではないでしょうか。

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