BOX190 2009年9月2日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 天国は空想の世界では? 広島県 N・Tさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は広島県にお住まいのN・Tさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「こんにちは。最近思うことは、天国は本当にあるかと言うことです。それと、天国と地獄には、線引きで、どうやって決めるのでしょうか。
 死後の世界など非現実的で、あまり信じている人はいないと思います。死んだら終わりと思っている人も多いと思いますし、一度限りの人生だから悔いの残らないように生きていけば、いいと思います。
 みんなが天国にいけたらいいですが、それは、人間が死の恐ろしさのあまり考えた、空想の世界ではないでしょうか。」

 N・Tさん、お便りありがとうございました。人間は死んだらどうなるのか、というのは一度は誰もが関心を抱く問題ではないかと思います。たいていの場合、そうした死の問題に関心を寄せるようになるのは、誰かの死をきっかけにしてではないかと思います。
 わたし自身、初めて死について考え始めたのは、四歳か五歳の頃でした。まだその頃はキリスト教を信じていたわけではありません。
 ある日、とても印象に残る夢を見ました。その夢と言うのは、持っているだけで死ななくても済むようなお札を誰かが近所の空き地で配っている夢です。自分もそのお札が欲しくてその行列の後ろに並びました。そこで目が覚めてしまったのですが、今でもはっきりとその夢を覚えているのですから、幼いながらに強烈な印象だったのだと思います。

 今になってその頃を振り返って見ると、やはり死に対する恐れが小さい頃からあったのは疑いえません。どうしてそういう恐れが生じたのか、それが生まれながらに人間が持っている死への恐怖なのか、それとも、後天的に身につけるものなのか、わたしには分かりません。ただ、キリスト教的に言えば、死に対する恐れや嫌悪感は生まれながらの感性ということは間違いありません。そうでなければ、エデンの園で「善悪の木の実を取って食べるな、食べれば必ず死ぬ」という神の命令は、何の恐れも人間に抱かせることはなかったことでしょう。

 あるいは、聖書を離れて死の恐怖を説明するとすれば、こうも説明できるかもしれません。人間も生物の一つと考えて、本能的に自分の遺伝子を残すという使命から、個体の死を遺伝子増殖の危機と意識して恐れを抱いている、そういう風に説明することができるかもしれません。いえ、むしろそれは逆で、個体の生命に危機が生じるからこそ、自分の遺伝子を残そうとする本能が生まれるのでしょう。
 そうすると、生命の危機に直面して、人間だけが自分の遺伝子を残すだけで満足することができず、死を超えた世界に希望を持つことで安心感を見出そうとする存在だと言えるかもしれません。もちろん、動物がそのような希望を決して抱かないということが証明されてはいませんから、断定はできません。

 ところで、N・Tさんはお便りの最後にこうおっしゃいました。

 「みんなが天国にいけたらいいですが、それは、人間が死の恐ろしさのあまり考えた、空想の世界ではないでしょうか。」

 なるほど、あらゆる宗教が死後の理想的な世界について語っていることから、死の恐怖が「天国」や「極楽」についての思想を生み出していると言えなくもありません。しかし、単に死の恐怖を和らげるためだとしたら、天国についてだけ語れば十分なはずです。地獄や死後の裁きについて語る必要はまったく見当たりません。
 もし極楽や天国だけについて語れば、人間は好き勝手な生活に陥ってしまうから、地獄や死後の裁きについて語るのでしょうか。しかし、そもそも、好き勝手に生きるだけではいけないという倫理観や道徳観はどこから生まれてくるのだろうかと問いたくなってしまいます。それでは人間生活が成り立たなくなり、人間が絶滅してしまうからでしょうか。そうすると、人間だけが、地獄や天国などの理屈をつけないとまともに生きていけないということなのでしょうか。そういう理屈で天国や地獄の思想を説明することが、ほんとうに正しいのかどうか、わたしには納得どころか、かえって多くの疑問が湧いてきてしまいます。

 また、N・Tさんはこうもおっしゃいました。

 「死後の世界など非現実的で、あまり信じている人はいないと思います。死んだら終わりと思っている人も多いと思いますし、一度限りの人生だから悔いの残らないように生きていけば、いいと思います。」

 「死んだら終わり」というものの考え方も、ある意味では、死の恐怖を和らげる効果のある信念思想だと思います。天国もない代わりに、地獄も裁きもないのですから、たとえ無責任な生き方をしても、本人に悔いがなければ、安らかに世を去っていくことができます。これはいってみればありがたい宗教です。
 実際、「死んだら終わり」と言う考えを持っている人が、どれくらい多いのか、わたしは正確な統計を知りません。N・Tさんのおっしゃるように多くの人がそう思っているのだとすれば、それは、死の恐怖や死後の裁きからどれほど多くの人が逃れたがっているか、という数字の表れではないかと思います。逆にそれほど多くないのだとすれば、「死んだら終わり」という信念では乗り越えられない深い恐怖感を人間は心の奥底に未だに持っているということなのだと思います。天国や地獄についての教えを持った宗教が今になっても廃れないのは、むしろ多くの人が「死んだら終わり」という思想や信念に納得していない証拠なのだと思います。

 さて、ご質問に対して断定的な答えを避けて、随分回りくどい言い方をして来ましたが、結局のところ、死に対する恐れと言うものは、動かしがたい現実として人間に絶えず付きまとっていると言うことです。そのような恐怖からどのように逃れ、解放されるのかは、人間の考え方一つでどうにでもなりそうな気がしないではありません。「死んだら終わり」という考え方も、そうした気休めの一つにすぎません。いまだかつて、誰も死んだら終わりかどうかを確かめた人はいないのですから。
 もちろん、他の宗教が説く「天国」や「地獄」についての考えも、誰一人として証明した人はいないのですから、「死んだら終わり」という考えと大差はないかもしれません。

 キリスト教の説く死後の世界についても、結局は同じではないかと言われればそれまでです。大切なのは、聖書が人間の死について、また死後の世界について何を教えているのか、という事実の認識と、それを一人一人がどう受け止めるか、ということだと思います。そして、その結果として、よりよい人生を送ることができるかどうか、ということに尽きると思います。

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