聖書を開こう 2009年2月26日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神の恵みに生きるには(ルカ6:27-36)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしが牧師になってまだそれほど年数が経っていないころ、教会に一人のセールスマンがやって来ました。一台十数万円もする外国製の掃除機を売りに来たセールスマンです。どれほどこの製品が優れていたとしても、価格も価格であるのと、第一今使っている掃除機で十分間に合っているので断りました。
 すると、そのセールスマンは開き直ってこう言いました。
 「キリスト教は愛を説いているんでしょ。だったら、わたしのためだと思って買ってください」
 この言葉には呆れてしまいました。世の中の人がキリスト教会に対して皆そのように考えているとは思えませんが、その後も、似たような考えに時々出会います。
 確かにイエス・キリストは、相手が敵であろうが味方であろうが、「求める者には、だれにでも与えなさい」とおっしゃっています。文字どおりにこの言葉を受け止めるとすれば、セールスマンの求めに応じて掃除機を買うべきだったのでしょうか。やはり何か違うような気がします。
 いったいわたしたちはキリストの言葉をどのように受け止め、どのように生きるべきなのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 6章27節〜36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 きょうの箇所は、読んで言葉の意味が分からないというような箇所ではありません。どの言葉も平易な日常の言葉で記されています。難しい言葉は何一つとして記されてはいません。しかし、これら一連の言葉をいざ実践しようとすると、たちまち戸惑いを感じてしまいます。
 というのも、考えるまでもなく、これらの言葉の中には、文字通りに実践したならば、明らかに社会が混乱してしまうと考えられる教えがあるからです。
 たとえば「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」と言う言葉を文字通りに実践すれば、暴力を許す社会になってしまいます。暴力を振う者が大手を振って歩きまわり、被害を受けた人に向かって「ついいでに反対側の頬も殴られておきなさい」などと人々が平然と言い放つ社会だとしたら、これはとても神が望む社会だとは思えません。
 「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」という言葉を実践すれば、泥棒に対してさえ抗議することが許されなくなってしまいます。それではそもそも警察さえ不要な社会になってしまいます。
 イエス・キリストはそのような社会になってでも、これらのことを文字通りに実践することを望んでいらっしゃるのでしょうか。そうであるとすれば、そもそもイエス・キリストが説く「愛」とは一体何であるのか、そこからして疑問になってしまいます。

 イエス・キリストがここでおっしゃっている教えを正しく理解するためには、どの言葉から出発して考えるべきなのか十分に注意しなくてはなりません。

 イエス・キリストはいきなり「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」とおっしゃっているわけではありません。また、いきなり何の前提もなく「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」と勧めているわけでもありません。
 そうではなく、まず、いの一番におっしゃられたことは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」ということです。
 ここでいう「敵」というのは、それに続く言葉から明らかなように「あなたを憎む者」であったり、あなたの「悪口を言う者」であったり、あるいは「あなたを侮辱する者」であったりする者たちです。
 誰でもそうだと思いますが、自分に対して憎しみの感情を抱いている人に、愛を示したり親切にするというのは簡単なことではありません。せいぜい、そういう人と係わりを持たないようにと相手にしないことがやっとです。しかし、実際にはそれすらも難しく、自分を憎む者に対しては同じように相手を憎々しく思ったり、悪口を言われれば、ついその人の悪口を言いふらして自分の味方を増やそうとしがちなのがわたしたちです。
 そういう感情と言うのは一旦持ち始めてしまうと抑えがたいものがあります。そうなると、もはや自分の意志で自分の態度を決定するのではなく、相手の感情や態度に応じて自分の対応が決まってしまうのです。そういう生き方というのは決して自由な生き方ではありません。敵対や憎しみの連鎖が始まれば、そこから抜け出すことはほとんど不可能に近くなってしまうのです。

 しかし、キリストの弟子たちはそうであってはならないと、イエス・キリストはおっしゃっているのです。敵には敵らしく振る舞うことだけがわたしたちの正しい生き方ではないのです。敵を愛することで、敵対する関係を乗り越えていく自由さがあるのです。叩かれたら、叩き返すだけがただ一つの選択肢なのではありません。敢えて反対の頬を差し向ける自由もあるのです。「目には目、歯には歯」という原理が、たとえそれが正しい原理であったとしても、あえてその原理に訴えない生き方を選ぶ自由もあるのです。

 それはまた逆の場合もあるのです。憎しみを持つ者に対して、人は同じように憎しみを抱きがちですが、反対に、自分に好意的な者に対しては、同じように好意的に振る舞いたくなりがちです。そんな動機に支配されないで、もっと自由に人を愛することが求められているのです。
 それだから、イエス・キリストはおっしゃいます。

 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」

 それは結局のところ「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という言葉に凝縮されるのです。神はまったく自由に人を憐み、まったく自由に人を愛してくださるお方です。その父なる神の愛に倣う生き方がキリストの弟子である者たちに求められているのです。

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