聖書を開こう 2009年10月29日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: ほんとうに幸せなのは(ルカ11:27-28)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしはまだ一度もイスラエルに行ったことがありません。イエス・キリストが歩まれた道や、イエス・キリストが民衆に語られたその場所を、いつか一度この足で歩き、この目で見てみたいと思っています。
 もっとも、イエス・キリストの時代の地表は、もうとっくに土に埋もれてしまって、今の地面や景色が、そのままそっくりイエス・キリストの時代の風景を表しているのではないと聞きました。あの時代に生きて、あの時代に味わうことができたことは、たとえ旅行に行ったとしてもほとんど味わうことができないのかと思うと少し残念に思います。
 しかし、それでも一度は訪ねてみたいと思いますし、その時代に生きてイエス・キリストを目撃した人たちのことを羨ましくも思うことがあります。もっとも新約聖書のすべてを手にしていないその時代の人から見れば、必要な神の言葉をすべて手にしているわたしたちの方がもっと幸せに思えるかもしれません。
 きょう取り上げようとしている箇所には、ほんとうに幸いなのは誰であるのか、イエス・キリストのお言葉が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 11章27節と28節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 きょうの箇所は、イエス・キリストの話を遮るようにして発せられた、一人の女性の発言で始まっています。
 先週学んだように、悪霊の頭によって悪霊を追い出しているのだと悪い評判を噂されたイエス・キリストは、ご自分を弁護してはっきりおっしゃいました。

 「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 そうです。イエス・キリストと共に神の国はわたしたちのただ中に到来してきているのです。キリストのなさる御業はそのことを雄弁に証しているのです。
 この喜ばしい知らせを耳にして、一人の女性が思わず声をあげます。

 「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」

 この言葉は、「あなたのお母さんは何と素晴らしいお方でしょう」と、イエスの母マリアを称えているようにも受け取れます。しかし、それはイエスのような子を持つ母親の幸いに、同じ女性として自分もまたあやかりたいと、その希望を言い表しているようにも受け取れます。
 そもそもこの女性が心打たれて、そのような発言をしたのは、イエスの力強い恵みの言葉を聞いたからに他なりません。神の国をもたらし、神の国の最先端にいらっしゃるイエス・キリストであるからこそ、この女性はその言葉に心動かされたのです。当時のユダヤでは女性はつつましく黙っていることが美徳と思われていました。その女性が声を張り上げるほどですから、どれほど深い感銘を、この女性がイエスの言葉によって抱いたか、想像することができると思います。
 この女性の関心はイエス・キリストの母親に向かっているように見えて、しかし、その心はイエス・キリストに向かっているといって間違いありません。けれども、イエス・キリストとの関係をどのように持つことが幸いなのか、はっきりとした考えを持ってはいなかったようです。

 イエス・キリストの母になること、これはマリアにしかできないことです。なぜなら今さら誰かがイエスを産み直すことはできません。誰かがもう一人のキリストを産むことも不可能です。救い主の母親としての幸いは、マリアだけが味わうことのできる幸いです。そうであればこそ、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」としか言いようがなかったのでしょう。

 イエス・キリストとの関係を考える時に、まずいの一番に母と子の関係を思い浮かべたこの女性の言葉に応えて、イエス・キリストはおっしゃいます。

 「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 以前、イエス・キリストはご自分の母親や兄弟たちが訪ねてきた時に、こんなことをおっしゃったことがありました。

 「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8:21)

 イエス・キリストの母、イエス・キリストの兄弟であるということは、血のつながりからみた母や兄弟ではないとおっしゃるのです。そうではなく、神の言葉を聞いて行う人たちこそ、イエスの母、イエスの兄弟だと言うのです。
 そして、きょうの箇所で、イエス・キリストはその言葉をさらに一歩進めて、神の言葉を聞き、それを守る人こそ幸いな人であるとおっしゃいます。

 神の言葉を聞く幸いとは、この女性がイエスの言葉を耳にして、正に味わった幸いです。イエス・キリストは神の国をもたらすお方として、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と力強く宣言されます。この神の国をもたらすお方の言葉を耳にできる幸いは、イエスの母である幸いにまさる幸いなのです。

 イエス・キリストのメッセージは、わたしたちがサタンの支配から解放され、神の支配の中で生きる喜びを告げるものです。ナザレでの宣教活動を開始される時、イエス・キリストは預言者イザヤの言葉から朗読し、こう告げました。

 「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)

 罪に捕らわれたわたしたちに解放を告げ、罪の生み出す悲惨と苦しみからわたしたちを救い出し、恵みのもとにわたしたちを置いてくださるのは主イエス・キリストです。そのお方の語る神からの言葉を耳にできるとは何と幸いなことでしょう。

 また、イエス・キリストは神の言葉を聞くだけではなく、神の言葉を守ることの幸いも教えてくださいました。

 もちろん、わたしたちは神の御心を完璧に行うことはできません。わたしたちが不完全で弱い者であることを認めないわけにはいきません。

 では、神の言葉に示された御心を完璧に行うことができない者は不幸だとキリストはおっしゃるのでしょうか。そうではありません。
 サタンの支配から解放され、恵みのもとにおかれているからこそ、神の力強い導きを信じて、神の御心に立とうとする思いが与えられているのです。挫折して自分の力に失望することがあっても、神の力に依り頼む希望を奪い去られることはないのです。
 神の言葉を行うということは、常に赦しつづけ、常に受け容れつづけてくださる神の恵みを信じて、神の恵みのうちを歩み続けることに他ならないのです。だからこそ、そう信じて歩むものは幸いなのです。

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