聖書を開こう 2009年11月12日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: あなたの中に光は届いているか(ルカ11:33-36)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 最近、小さな文字がとても読みづらくなってきました。ちょっと暗いところでは文字の判別が以前のようにはできなくなりました。自分ではまだまだ若いと思っていても、身体の方は確実に歳を取っているようです。歳とともにものが見えにくくなるのは仕方のないことですが、内面的な目が見えにくくなり、霊的な真理を悟ることができないというのは、仕方のないことでは済まされません。
 きょう取り上げようとしている聖書の箇所で、イエス・キリストは「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」とおっしゃって、自己点検をするように促しています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 11章33節〜36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

 きょう取り上げるイエス・キリストの言葉は、別の箇所で違った文脈の中でも登場する言葉です(マタイ5:15、6:22-23参照)。ルカによる福音書の中では、天からのしるしを求める群衆に対する言葉と明らかに関係しています(ルカ11:16,29)。天からのしるしを求めた群衆は、イエス・キリストのなさった御業を目の当たりにしても、そこから何の真理も読み取ろうとしない人たちです。
 確かに、イエス・キリストが悪霊を追い出しているのを見て、それは悪霊の頭の力を使っているのだ、と考える人たちよりはましかも知れません。しかし、イエス・キリストの働きの意味を悟ることができないという点では、五十歩百歩なのです。
 群衆たちのうちのある者は、もっとはっきりとしたしるしを欲しがって、イエスに天からのしるしを求めたのです。
 そういう群衆に対する答えの一つは、先週学んだとおりです。イエス・キリストは群衆たちを前にはっきりとおっしゃいました。

 「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」

 きょうの箇所は引き続き、同じ文脈の中で語られるイエス・キリストの言葉です。

 先ず初めに、イエス・キリストは「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とお語りになって、ともし火についての一般的な常識を口にします。
 もちろん、イエス・キリストがここでお語りになりたいのは、ともし火についての一般常識ではありません。そんなことは言うまでもなく誰もが知っている常識です。
 イエス・キリストはこのともし火についての一般的な常識を比喩として用いて、ご自分とその働きをともし火に例えているのです。

 イエス・キリストは、人目を憚ってこそこそと何かをしているわけではありません。まして、神からのメッセージを覆いで隠して、わざとわかりにくくしているというわけではないのです。誰もせっかくのともし火を穴蔵の中や升の下に置かないのと同じように、イエス・キリストも言葉と行いを通して、みんながはっきりとわかるように神の真理をお示しになっているのです。

 それにもかかわらず、天からのしるしをキリストに求めるということは、イエス・キリストのともし火は穴蔵の中や升の下でともされているともし火だ、というくらいに侮辱的で挑発的な発言なのです。

 こんなにも輝かしいともし火であるイエス・キリストの言葉を耳にし、その働きを目にしても、それでも他に天からのしるしを欲しがるのは、いったいどうしてなのでしょうか。やはりイエス・キリストは穴蔵の中や升の下に置かれたともし火に過ぎないのでしょうか。

 そうではありません。問題はともし火であるイエス・キリストの側にあるのではなく、むしろ群衆の側にあるのです。

 イエス・キリストはおっしゃいます。

 「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」

 こうこうと輝いている光を感じることができずに、「暗いからもっと光を」といえば、それは明らかに目に問題があるはずです。もちろん、イエス・キリストがここでおっしゃっている目も身体も、文字通りの目や身体ではなく、比ゆ的な霊的な意味です。

 新約聖書のエフェソの信徒への手紙4章17節18節には罪の暗闇に生きる人間をこう描いています。

 「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」

 罪ある人間の知性の暗さ、心の頑なさにこそ問題があるのです。真理の光であるキリストの言葉を耳にし、その御業を目にしても、その光がしっかりと内面にまで届かないのです。そうであるのに、あたかもキリストの側に問題があるかのように思うことは、とんだ的はずれな思い違いなのです。

 「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」とイエス・キリストはおっしゃいます。

 心の内側に届くはずの光が、どこかで途絶えているのに、それに気がつかないまま過ごすとすれば、それは大変な問題です。どこで何が原因で光が届いてこないのか、早急に点検の必要があるのです。

 では、どうやったら澄んだ目を取り戻し体全体を明るくすることができるのでしょうか。残念ながらその方法については記されていません。いえ、そのためにこそ、イエス・キリストはいらっしゃったのです。

 イエス・キリストは「我々も見えないということか」と詰め寄るファリサイ派の人々にこんなことをおっしゃいました。

 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)

 罪のために暗くなっているわたしたちの内側に気がつくことこそ大切です。あとは、救い主イエス・キリストがすべてを解決してくださいます。

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