BOX190 2010年2月24日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 神ご自身の血? 千葉県 M・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのM・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、番組を興味深く聴かせていただいています。
 実は先日のことですが、集会で聖書をみんなで輪読していた時のことです。うちの教会では新改訳聖書をつかっているのですが、たまたまそのとき新共同訳聖書を持ってきた人がいました。
 使徒の働き20章28節でその人は『聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。』と読みました。
 しかし、わたしの聖書では『神が御子の血によって』ではなく『神がご自身の血をもって』となっています。
 よくよく考えてみると、神には血も肉もないのですから、新共同訳聖書のように『神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会』という言い方のほうが理にかなっているように思いました。
 おそらく、新改訳聖書と新共同訳聖書が翻訳の際に使ったもともとのテキストが違っているのかとも思いました。ただ、新改訳聖書の欄外の注には特にそのようなことは書かれておらず、異本として『神』を『主』と読む写本があるとありました。
 新共同訳の様な翻訳は一体どこから出てくるのか教えていただければと思います。よろしくお願いします。」

 M・Yさん、お便りありがとうございました。様々な翻訳の聖書があるということは、ときどきハッとするような発見につながることがあります。
 前にもこの番組でお話したことがあるかもしれませんが、翻訳という作業自体が、聖書の解釈を抜きにして、中立的に成り立つようなものではありません。そこには必ず翻訳者自身の解釈が含まれているものです。ですから、いろいろな翻訳聖書を読み比べてみるだけでも、その個所が翻訳者によってどのように受け止められているのかを知ることができます。
 もっとも翻訳者によって翻訳が大きく違ってくるような個所というのは、そんなにたくさんあるわけではありません。昔から翻訳者泣かせであるような聖書の個所というのは、だいたいいくつか決まっています。ただ、翻訳聖書の訳文が違う場合、翻訳者の解釈によって訳文が違ってくる場合だけとは限りません。聖書翻訳の場合には、翻訳者が翻訳のもとにしている原語のテキストの本文がそもそも違っているという場合もあります。つまり、どの写本の本文を採用するかで違ってきてしまう場合もあるということです。

 さて、ご質問に出てきた使徒の働き(使徒言行録)20章28節ですが、結論からいうと、テキストの問題と翻訳の問題と二つの問題があります。しかし、ご質問に直接かかわっているのは翻訳の問題です。そして、M・Yさんがお便りの中で触れていらっしゃるように、新改訳聖書の欄外注に出てくる2種類の読み方は、翻訳ではなく写本の違いに由来するものです。ただ、この二つの問題は根が一つといってもよいかと思います。
 M・Yさんが新共同訳聖書の翻訳をお読みになって、こちらの方が新改訳聖書の翻訳より理にかなっているとお感じになったとおっしゃっていますが、要するに、どちらがより理にかなっているかという思いが、翻訳の選択や、写本の選択に影響を与えているということです。

 ただし、理にかなったとは言いましたが、理にかなったことが必ずしもオリジナルテキストの本文であったり、著者の言おうとしていることであるとは限りません。そこが聖書翻訳の難しい点なのです。あとで詳しく触れますが、人間というのはいつも自分の理にかなったように人の話を曲げてしまいがちなものです。写本によって読み方が違う個所が生まれる理由の一つは、写本を書き写す人が、うっかり自分の思いこみで、あるいは意図的に自分の理にかなったように書き写してしまう場合があるからです。

 さて、今回問題となっている使徒の働き(使徒言行録)20章28節には7通りの写本の違いと2通りの翻訳の違いがあります。繰り返しになりますが、M・Yさんがご質問なさっている問題に直接かかわるのは翻訳の方の問題です。

 それで翻訳の違いのことを取り上げる前に、写本の違いのことからお話ししておきたいと思います。
 先ほども言いましたが、この個所には7通りのタイプの読み方が知られています。新改訳聖書の欄外注で指摘されているのは、そのうちの一つです。つまり、本文の翻訳に採用した「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」という読みなのか、欄外注のように「主がご自身の血をもって買い取られた主の教会」と読むか、どちらの写本の読み方を正しいとするかです。他の写本に出てくる五つの読み方は、それらの折衷であったり、バリエーションであったりするので、無視してもよいと思います。
 さて、「神」なのか「主」なのか、どちらもその読み方を採用している写本の古さからだけでは判断しかねるほど、多くの初期の写本によって支持されています。

 では、何によって判断するかというと、どちらかを本来の読み方と想定した場合、なぜもう一つの読み方が生じるのか、ということをうまく説明できる方が、本来の読み方であるということです。

 この場合、M・Yさんが理にかなうと感じた、まさにそのことが別な読み方が生じる説明となるのです。

 つまり、もともと「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」と記されていたとすれば、それを読んだ人は、神には血はないから、「主」の間違いだろうと勝手に訂正してしまう可能性があるからです。
 もともとの文章が難解であればある程、違う読み方の写本が生まれるという原則に立てば、「主がご自身の血をもって買い取られた主の教会」という表現よりも「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」という方がより理解しにくい表現なので、もともとの文章はこちらではないかと推測されるわけです。

 そこで、ご質問の件に戻りますが、この文章の中で理解しにくいのは「ご自身の血」という部分です。何度も言いますが、神に肉や血があるはずがないからです。とすれば、ここはどうしてもこの部分を違ったように解釈できないものか、と思うのは自然の流れです。
 実は「ご自身の血」と翻訳された言葉は、「ご自身のものの血」と訳せないわけではありません。父なる神にとって「ご自身のもの」というのは、御子であるイエス・キリストのことに他ならないと解釈するわけです。つまり、新共同訳聖書が翻訳しているように「御子の血」という翻訳がうまれてくるのです。

 というわけで、違った読み方をする写本が生まれてくるのも、違った翻訳が生まれてくるのも、根っこは一緒で、「神ご自身の血」という難解な表現を避けるために生じたということです。

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