BOX190 2010年5月12日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: キリストの愛をどう実感するのか 熊本県 K・Iさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は熊本県にお住まいのK・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。きょうお尋ねしたいのは、キリストの愛の形についてです。
 キリストは、いろいろな形の愛で人をいやし、助け、救いました。しかし、果たして現在、わたしたちにちって、キリストの愛はどう存在するのでしょうか。そこのところが実感できないのです。よろしければ教えてもらえないでしょうか。」

 K・Iさん、お便りありがとうございました。お便りをいただいて、いろいろな思いが頭の中を駆け巡りました。お葉書でいただいた短いお便りですから、要点だけが手短に記されています。この短いご質問をこうして葉書にしたためるのには、ここに記されたこと以上のたくさんの思いがあるのではないかと思いました。まずは短い質問そのものよりも、その質問が出てくるに至った深い背景を知りたいと思いました。

 その次に頭をよぎったのは、キリストの愛に限らず、そもそも人が「愛」を感じるのはどういうときなのだろうと思いました。K・Iさんは愛について、癒したり、助けたり、救ったり、そういう具体的な形の中に愛の現れを見てとりました。確かに人が愛を感じるのは、抽象的な観念としてではなく、具体的な行動や言葉を通してです。
 もちろん、癒しそのものが愛であるのではありません。あるいは助けそのものが愛であるのではありません。なぜなら何かの見返りを期待して打算的な思いで人を助けたり、癒しの手を差し伸べるということもあるからです。しかし、それでも受ける側の勘違いによって、そこに愛を実感することがないとは言えません。
 しかし、また、愛をこめて誰かを癒したり、愛をこめて助けの手を差しのべたとしても、そのことが必ず相手に愛を実感させることができるのか、というと必ずしもそうとは限りません。「飼い犬に手をかまれる」と言う諺があるように、面倒を見たり大事にしていた人から、裏切られるということは、諺になるくらいよくあることです。どんなに愛情を注いだとしても、相手に実感してもらえないということもあるのです。
 もちろん、へ理屈を言えば、ほんとうに愛情をこめて接していないから飼い犬に手をかまれるようなことになるのだ、とも言えるかもしれません。

 いずれにしても、こうやって様々なケースを考えていくと、人が愛を実感できない場合というのは、突き詰めていけば二つの場合しか考えられません。一つは愛する側の人に本当の愛が欠けている場合です。もう一つは受け取る側に何らかの原因があって愛を愛として受け取れない場合です。

 もちろん、これをご質問にあてはめて考えるとすれば、第一のケースを想定したのではお話になりません。つまり、キリストの愛は今はもう存在しないのだから、実感できないのは当たり前だ、とする考えです。
 そもそも、そんな割り切った考えができるくらいなら、わざわざご質問を寄せてくるはずがありません。またご質問の趣旨にも反します。

 とすると、キリストの愛を実感できない理由は第二のケースということになります。つまり、キリストの愛を実感できないのは、受け取る側の人間に何らかの問題があるという場合です。
 ただし、受け取る側の問題というのにも二通りの場合が考えられます。一つは信じる心の問題です。そもそも愛というものは数量化されたり数値化されたりして納得するものではありません。確かに愛は具体的な行為や言葉によって伝えるものではありますが、どんなことをどれだけやれば、必ずそこに愛を感じてもらえるというものではありません。受け取る側が信じて受け止める姿勢を持たなければ、愛する側がどれだけ頑張ったとしても伝わらないのです。
 しかし、キリストの愛を実感できないのは、あなたに信仰がないからだと言ってしまえば、それは質問者に対して失礼なばかりか、そもそも信仰がないのなら、質問自体がナンセンスです。

 受け取る側の問題のもう一つは、本人の周りにキリストの愛を疑わせる様々な事情があるということです。それは必ずしも本人に責任があるということばかりではありません。
 たとえば、たび重なる不幸が続く中で、キリストの愛を実感することは困難です。不幸な出来事や理解に苦しむ困難な出来事は、キリストの愛を確信させるよりもむしろ疑う方向に人を動かしやすいからです。
 あるいは、今ある幸せを当然のこととして、それ以上の特別な何かがなければ愛されていないと考えてしまうことです。しかし、今ある幸せ以上の幸せが次から次へと起こることを期待する生き方がどこか問題です。第一今ある幸せにキリストの愛を見落としているのですから、それ以上の幸せがやってきたとしても、そこにキリストの愛を感じるとは思えません。

 では、聖書はどこにキリストの愛が表れていると語っているのでしょうか。これはヨハネの手紙にはっきりと記されています。ヨハネの手紙一の4章9節と10節にこう記されています。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 聖書は特別な奇跡の中にでもなく、特別な幸せな出来事の中にでもなく、神がその愛する独り子イエス・キリストをお遣わしになったこと、しかも、わたしたちの罪を償ういけにえとしてお遣わしになったことの中に、神の愛がもっとも鮮明に表れていると語っています。

 このことから目をそらして他を探そうとすれば、決してキリストの愛を見出すことも実感することもできないのではないでしょうか。

 わたしがきょうもまた生かされているという、この小さなことの中に、神がキリストを通してわたしを受け入れていてくださっているという大きな愛を見ようとするときに、だんたんとキリストがわたしを愛してくださっていることを実感できるようになるのではないでしょうか。
 しかし、このことを抜きにして、他の出来事の中にキリストの愛を実感しようとしてもがくときに、ますますキリストの愛が分からなくなっていくのだと思います。

 最後にもうひとつ、ヨハネの手紙は続けてこうも言っています。

 「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」

 ヨハネは、神がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも互いに愛し合うべきことを力説しています。互いに愛し合うときにこそ、神の愛がわたしたちの内で全うされているとさえ述べています。
 はずかしい話ですが、クリスチャンが互いに愛し合うことを忘れていることが、キリストの愛を実感させない一番の原因かもしれません。

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