BOX190 2010年10月6日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 金持ちとラザロの話は実話か譬えか? 山形県Y・Wさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山形県にお住まいのY・Wさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「いつも放送ありがとうございます。いつも聞いています。5月5日にはアブラハムについてのわたしの質問を取り上げていただきありがとうございました。
 さて5月6日放送の『聖書を開こう』の原稿をインターネットで読ませていただきましたが、ルカによる福音書16章19節から31節の扱いが、明らかにたとえ話であるように記されていまして、驚きました。
 わたしは以前からここは実話として主イエスが語られたものであると聞いていたからです。実名のラザロとアブラハムが登場するのですから 、実話であると思います。いかがでしょうか。」

 Y・Wさん、お便りありがとうございます。お便りを読ませていただいて、わたしの方も新鮮な驚きを覚えました。というのも、ルカ福音書の16章19節以下に記された「金持ちとラザロの話」を、実話ではなくたとえ話であると疑いもせずにずっと理解してきたからです。どうしてたとえ話だと思ったのか、改めてその根拠を問われると、自分の思い込みで最初に抱いた印象を持ち続けているにすぎない、と正直に告白した方がよさそうです。少なくともわたしの頭の中では語り出し部分が「ある金持ちがいた」とか「ある人が〜した」で始まるものは、すべてたとえ話だと思い込んでいたからです。いえ、実際、イエス・キリストのたとえ話にはそういう出だしのものが多いからです。
 そして、その思い込みをきょうのきょうまで修正する機会がなかったのは、Y・Wさんのような読み方をしている人に一人も出会わなかったことと、自分が今まで参考にしてきた様々な書物は、記憶している限り、すべてこの金持ちとラザロの話をたとえ話として扱っていたからです。
 さらに、もう一点言うとすれば、たとえ話は全てフィクションに基づいているという暗黙の前提です。確かにたとえ話は寓話ではありませんから、必ずフィクションであるとは限りません。実話に基づいたたとえ話というのもあります。それに対して寓話というのは、たとえばイソップ物語の「アリとキリギリス」のように現実にはあり得ない世界の事柄を使って、道徳的な教訓を伝える物語です。すべてがフィクションです。
 しかし、一般的にはたとえ話はフィクションであると考えられていますから、「金持ちとラザロの話がたとえ話である」と言う時には同時に、その話はフィクションであるという思い込みがわたしのうちにあったというのは事実です。
 こうしたことが重なって、「金持ちとラザロの話」はたとえ話であって、従って、実話ではなくフィクションであるという思い込みがわたしの中に生まれたのだと思います。

 実はY・Wさんからお便りをいただいたのとほとんど同じ時期に、別の人からも同じようなご質問を受けました。それは、「善いサマリア人」の話は、たとえ話ではなく、実話ではないか、というのです。その根拠はといいうと、どこにもそれがたとえ話であるとは書いていないというのです。新共同訳の聖書には小見出しがついていますが、そこにも「善いサマリア人」とはありますが、「善いサマリア人の譬え」とは記されていないというのです。
 なるほど、イエス・キリストがお語りになった教えには「神の国は〜のようである」という出だしで始まっていて、明らかにそれがたとえ話であることが分かるものや、「イエスは譬えでお語りになった」などのように、それが譬えであるという福音書記者の注釈が加えられたものがあります。そういうものだけをたとえ話であるとするのであれば、善きサマリア人の話も、金持ちとラザロの話も、たとえ話ではなく実話であるということになります。

 しかし、結論から先に言わせていただくとすれば、善きサマリア人の話も、金持ちとラザロの話も、どちらも実話ではなくたとえ話であると考える方がよさそうです。もちろん、Y・Wさんから指摘を受けるまで、わたしの思い込みでそう決めつけていたことは認めますが、その根拠を改めて明らかにしてお話したいと思います。

 まずは一般論的なことからお話したいと思います。何かを表現するには、比喩的な表現方法があることはご存じのとおりです。この比喩的な表現には直喩と呼ばれるものと隠喩と呼ばれるものがあります。
 たとえば「針を撒いたようにきらめく海」と言う表現は、海の輝きを撒かれた針がキラキラ輝く様子にたとえた直喩です。「〜のように」とありますから、実際に海に針がばら撒かれているのではないことはすぐにわかります。
 しかし、「君の瞳は百万ボルト」と言えば、「君の瞳がきらめく明るい電球のように輝いている」という意味なのか、それとも文字通り瞳に百万ボルトの電圧がかかっているのか、文章だけでは判別できません。かろうじて、百万ボルトの電圧がかかった瞳などというのはあり得ないことだろう、ということでそれが比喩であることが分かります。こういうものを隠喩と言います。
 もっとも隠喩の場合、表現によっては、それが比喩なのか事実なのか分からないことがあります。たとえば、「彼の瞳は水晶玉だ」といえば、比喩ともとれますが、現実に水晶玉の義眼を入れているともとれます。あるいは「お母さんは鬼だ」といえば、それが隠喩であることが分かりますが、「泣いた赤鬼のお母さんは鬼だ」といえば、あたり前のことを言っているようにもとれます。泣いた赤鬼のお母さんは実は人間だったということは、普通考えられない物語の展開だからです。

 何が言いたいかといえば、たとえ話というものを、ストーリー全体がひとつの隠喩であるとすれば、そのストーリーの内容から、それがフィクションに基づく譬えであるのか、実話であるのかを、判断することはできないということです。
 先ほど「善きサマリア人の話」が、たとえ話ではなく実話ではないか、というご質問を受けたことを話しましたが、確かにこの話がたとえ話であるということは、どこにも記されていません。しかしそれだからこの話が実話であるとは結論できないのです。

 そもそも、たとえ話とは何か、ということがここで問題になると思います。たとえ話というのは単に事実の報道ではありませんし、逆にとりとめのないフィクションの物語でもありません。たとえ話というのは、語りたい中心の真理や教えを、他の事柄に託して語る方法です。

 「ラザロと金持ちの話」では、ラザロや金持ちに何が起こったのか、というニュースを報道しているわけではありません。この話を通してイエス・キリストが伝えたいほんとうのことは、差し迫りつつある神の怒りからの救いの問題です。そういう意味で、この話はたとえ話なのです。

 では、その題材は事実に基づいているのか、と問われるならば、なるほどルカによる福音書19章11節以下にでてくる「ムナのたとえ」のように、統治の裁可を受けるためにローマに旅立ったアルケラオスの実話を題材にしたと思われるたとえ話もないことはありません。しかし、「ラザロと金持ちの話」の場合は、それに似た話がすでにエジプトにあります。そして、そこから影響を受けたと思われる「貧しい律法学者と金持ちの徴税人バル・マヤン」のたとえ話がすでにユダヤ人たちの間に知られています。それで、そのよく知られた筋書きを利用しながら、しかし、まったく異なる筋書きと結論をもったたとえ話にイエス・キリストが仕上げられたのではないかと考えることができます。馴染みのある話でありながら、しかし、主張点が異なるとなれば、いっそう聴く人の印象に残る話になるはずです。

 もちろん、実話に基づいているという可能性はゼロとは言いませんが、しかし、そこに登場するアブラハムが実在の人物であったから、ラザロも実在の人物に違いないとするのは、説得力があるとは思えません。むしろラザロという人名は「神は助け」という象徴的な意味を持った名前であるので、神だけを頼りとする貧しい人と金持ちとの対比から、登場人物に与えられた名前ではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、この話が実話であるかどうか、という問題よりも、この話を通してどんな真理をキリストが伝えようとされているのか、そのことこそ、大切な点ではないでしょうか。

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