聖書を開こう 2010年2月4日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 今日こそ解放の日(ルカ13:10-17)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 福音書を読んでいると、イエス・キリストの生き方に目が注がれます。それと同時に、ちょうど鏡に自分の姿を映すように、自分自身にも目が向かいます。聖書を読むということは、結局のところ、自分の姿、それも神の御心とはかけ離れた自分の姿に気がつくことなのだと思います。
 きょう取り上げる聖書の個所からもまた、イエス・キリストというお方とわたしたちの現実の姿とを学びとりたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 13章10節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

 先週までの個所で、イエス・キリストは、時を見分けることの大切さ、特に迫ってきている神の裁きの日を前に、心から悔い改めて、神の忍耐と寛容に応える真剣さを群衆にお教えになりました。
 きょうの出来事はそれに続く話です。安息日のできことですから、今までの個所とは日付も場所も違うのでしょう。しかし、切迫した時を見分けて、神の御前に真摯な悔い改めを行うことの大切さは、きょうの個所にも貫かれているテーマです。
 先週取り上げたたとえ話では、悔い改めの実を結ぶようにとの、神の忍耐と寛容が語られていました。その神の忍耐と寛容を受けとめて、人々は自分自身の生き方を見つめなおすことができたのでしょうか。

 場面はある安息日の会堂での出来事です。そこには礼拝を守る大勢の人々とともに、十八年間も病に苦しみ、腰が曲がったままの女性がいました。
 この光景は、この会堂に集まる人々とっては見慣れた安息日のひとコマだったに違いありません。十八年来、この女性が同じ姿で会堂に姿を現していたのでしょうから、特別な感情も湧かなかったのかもしれません。あるいは、かわいそうに思っても、どうすることもできない思いで、その女性とともに人々は礼拝を守ってきたのかもしれません。あるいは、もっと積極的に助け合いながら、今までを過ごしてきたのかもしれません。
 この短い記事の中には人々とこの女性とのかかわりがどんなであったか、詳しくは記されていません。
 ただ、一つのことをきっかけに、会堂に集まっていた人々のうちの、ある者たちの心が明るみに出されます。

 きっかけになった出来事は、イエス・キリストがこの女性を安息日に会堂でお癒しになったということでした。

 この事件に真っ先に反応したのは会堂の管理人である会堂長でした。会堂長はイエスが安息日に病人を癒されたことに腹を立てたのです。
 十八年も病にありながら、共に礼拝を守り続けてきたこの女性が癒されたという喜びよりも先に、怒りが会堂長の心にこみあげてきたのです。

 会堂長にとって、礼拝を共にしてきたこの病の女性のことは、ほとんど関心の外にあったのです。憐れむ思いもいつくしむ思いも抱いたことがなかったのでしょうか。いえ、自分自身に注がれている神の憐れみといつくしみとを日々思うことがあれば、この病に苦しむ人に無関心でいることはできなかったはずです。たとえ何もしてあげられないとしても、できないのと無関心なのとは違うはずです。関心を持ちながらも、何もできないもどかしさを感じていたのなら、その人が癒されたときに、まっさきに一緒になって喜ぶはずです。

 それにしても、どうして、この会堂長はイエスに対して怒りを覚えたのでしょうか。会堂長は言います。しかも、イエス・キリストに対してではなく、自分の怒りが正しいことを周りの人々に訴えるようにこう言います。

 「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

 会堂長は安息日の規定をそう理解し、そのように振舞うことが神の御心にかなった行動だと信じていたのです。また、そのような理解に立って、イエスの行いに怒りを感じる自分を正しいと思っていたのです。

 けれども、イエス・キリストはその表面的な安息日理解の偽善さを指摘します。

 「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。」

 動物には例外を認めながら、一人の人間に無関心でいられるとはどうしたことでしょう。

 確かに命にかかわることでなければ、一日延ばしにしたところで、問題はないということなのでしょう。しかし、一日延ばしにしてもいい、と思うこと自体が、愛のなさを示しています。

 そもそも、安息日は神が天地万物の創造の御業を完成されたからこそ、神がこの日を祝福し、聖別されたのです。しかし、そのはなははだよく造られた世界も、人間の堕落によって罪が入り込み、その美しい姿が失われてしまっているのです。
 イエス・キリストは十八年も病に苦しむこの女性の姿に、創造の御業が破壊され、サタンが支配する世界の悲惨さを見てとったのです。そうであればこそ、サタンの支配から人を一日も早く解放し、創造の本来の姿を取り戻すことは、万物の完成を祝う安息日にふさわしいことなのです。
 そして、そのような大きな神の御業を見て、喜び祝うことは安息日に礼拝を守る者にとって当然なすべきことです。

 この世の悲惨を目にして、そこにサタンの支配の恐ろしさを感じないとすれば、その人は結局、自分自身の直面している問題にも気がついていないということです。だからこそ、自分を神の側において、自分の正当さを吹聴しても、そのおかしさに気がつかないのです。

 これは会堂長だけの問題ではありません。17節を見ると、会堂長と思いを同じにしてイエスに敵対した人たちのことが記されています。そして、その敵対する人々の姿は、またわたしたちの姿ではないでしょうか。

 罪が支配するこの世界に、イエス・キリストとともに救いの光が差し込んでいます。神は罪人である頑ななわたしたちに悔い改めの機会を与えてくださっているのです。神の救いの御業が見える恵みの時に、心を閉ざして怒ってはいけません。サタンの支配から解放されるこの恵みの時に、人々があずかることを神は願っているのです。

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