聖書を開こう 2010年3月11日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 謙遜と寛大の勧め(ルカ14:7-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 他人から良い評価を得るということは、心地のよいことです。それは自信にもつながります。しかし、他人の評価を気にしすぎて萎縮してしまうこともあります。反対に自分を良く見せようとして、偽善的になったり尊大になることもあります。どちらの生き方も自分を見てくださる神のまなざしが思いの中から抜け落ちています。
 また、わたしたちが誰かを評価するという場面もあると思います。誰のどんな面を評価するのかによって、その評価は当然変わってきます。しかし、そこに損得勘定が加わってくると人間関係がだんだんとゆがんだものになってしまいます。
 今日取り上げる個所では、わたしたちが神の御前にどのように生きるべきなのかが語られます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 14章7節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 きょうの個所も、先週に引き続いて、あるファリサイ派の議員に招かれた食卓での出来事です。先週学んだ個所では、ファリサイ派の人たちが自分に都合のよいように律法を解釈し、隣人への愛をないがしろにしていることが指摘されました。その同じ食事の席で、イエス・キリストは神の御前で生きる者の心得について二つのことをお語りになりました。

 まず初めに、イエス・キリストは招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話されました。そのたとえ話は、婚礼の宴会に招かれたときの席順に関するものでした。
 もし、自分が最初から上座についてしまうと、自分よりも身分の高い者が来たときに席を譲らなければならないために、みんなの面前で恥をかくことになります。招待客のリストを知っていれば、そういう恥をかくこともなく済むのでしょうが、当時の婚礼ではそういうリストが配られるわけではありません。一番良い方法は最初から末席に着くことです。そうすれば、誰が来てもそれよりも下の席に移る必要はありません。

 もちろん、イエス・キリストがこのことをお語りになったのは、婚礼の宴でどういう席に座ったらよいのか、という知恵を授けるためではありません。そうではなく、この話はあくまでもたとえ話にすぎません。イエス・キリストがおっしゃりたいことは、神の御前でわたしたちがどうのように生きるのかという問題です。たとえ話の結論をイエス・キリストはこう結んでいます。

 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 そうです。高ぶる者を神は低め、へりくだる者を神は高く上げてくださるのです。

 「高ぶる」とはどういうことなのか、これについてはそれほど説明を必要としないでしょう。自分を実際以上に偉い者のように見せることです。そのような生き方が、神の御前に空しいことは、あえて説明するまでもありません。
 では「へりくだる」とはどういうことなのでしょうか。実力があるのにそれを隠して自分を卑下することでしょうか。確かに一般的にはそういう意味もあるでしょう。しかし、聖書が求めるへりくだりは、そもそもの前提が異なります。
 人に対してへりくだるよりも前に、神の御前に自分がどこに位置づけられるのか、そのことがへりくだりの出発点です。神に造られた者として、神の御前には誇るべきものが何一つとしてないというのが大きな前提です。人に対しては誇るべきことがあっても、神の前では誇るべきことが何もないのが人間です。だから、誰に対しても神の御前にあるかのようにへりくだることが聖書的な謙遜なのです。そのような心をもって生きることを神はわたしたちに望んでいらっしゃるのです。

 イエス・キリストがお語りになったもう一つのことは、この食事の席に招いてくれた家の主人に対するものでした。イエス・キリストを食事の席に招いたのはファリサイ派の議員でした。ユダヤの最高法院であるサンヘドリンの議員という意味かどうかは定かではありませんが、いずれにしても高い地位の人であったのには間違いありません。その人にイエス・キリストは「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない」とおっしゃいます。では、誰を招くべきなのか、続けてこうおっしゃいます。

 「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」

 なぜなら、「その人たちはお返しができないから」です。つまり、この話のポイントは人間からの報いを期待しないということにあります。いえ、人間からの報いを期待しないというよりも、神が報いてくださることを期待して歩むようにとの勧めです。そして、神が報いてくださることを期待しているからこそ、どんな人ともかかわることができるということです。

 もちろん、このファリサイ派の議員がお返しを期待して人々を招待していたとは思えません。この席に招かれた人たちは、自分にとって身近な人たちだったのでしょう。親しい人たちを招いて食事をする、これは誰にとっても当たり前のことです。この人たちを招いておけば、何かしら自分の利益につながるという明確な意識や目的があったとは思われません。
 しかし、自分の利益につながるという明確な意識や目的がない分、誰を招待すべきかということについて、自覚的な意識の変革もないのです。宴会のことに限って言えば、それを仲間内で楽しむというのはまだ許されるかもしれません。けれども、誰を神の国の福音に与らせようとしているのか、という問題だとすれば、これを軽く見過ごすことはできません。放っておけば、何となく気心知れた仲間を招き、内輪にとどまってしまうだけに終わってしまいます。自分の利益や都合だけを優先させれば、なお一層神の国の広がりは失われてしまいます。

 イエス・キリストはあえて「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」とおっしゃっています。わたしたちの意識を変えなければ神の国の福音も広がりようがありません。そして、わたしたちの意識をかえるのは、神が報いて下さることを信じる心をしっかりと持つことです。

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