BOX190 2011年3月23日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: どうしてクリスチャンになったのですか 石川県 R・Iさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大分県にお住まいのハンドルネーム・ストロベリーさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、旧約・新約聖書を読むと恐い思いをします。実際、その時代に生まれていないからまったくわからないのですが、本当に実際にあった内容が書かれているのでしょうか。本当のことを知りたいのです。現実とあわない、できないことが書かれているので、メッセージをお願いします。」

 ストロベリーさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。また、聖書を真剣に読んで、感じるままのことを書いてくださってありがとうございます。

 聖書を初めて手にして読んだときに持つ感想は、人それぞれだと思います。お便りをいただいて、自分自身のことを思い出してみました。
 わたしの場合、旧約聖書の一ページ目から、律義に読み始めました。旧約聖書を読んで感じたことは、聖書の神さまは恐ろしいお方だ、という一言に尽きました。「恵みの神」というよりも「怒りの神」と表現するのがふさわしいようにさえ思えました。そのイメージが強かったので、新約聖書を読んでも「神の愛」ということが、素直に心のなかに入ってきませんでした。もっとも、自分流に一回読んだだけの印象ですから、その当時の自分には仕方がないことでした。

 そう言う意味で、聖書を読んで恐いと思っていらっしゃるストロベリーさんの気持ちがわからないでもありません。しかし、わたしが今でもあのときと同じ思いで聖書の神をイメージしながら聖書を読んでいるのかというと、そうではありません。
 たしかに、聖書の神に対して畏敬の念をもっていることには今も変わりはありません。しかし、訳の分からない恐怖心というのとは違います。
 罪に対する神の怒りの恐ろしさも知っていますが、同時に罪人に対する神の憐れみと慈しみも理解できるようになりました。その両方を含めて、神を畏れ敬う気持ちを持っています。

 さて、ストロベリーさんのご質問に戻りますが、聖書に書かれていることは、本当にあったことなのかどうか、というご質問です。
 いただいたお便りの中には具体的な個所が記されてはいませんが、それを読んで恐ろしく感じる個所、しかも、常識では起こり得ないようなことが記されている個所、といえば大体の想像がつきます。
 たとえば、旧約聖書で言うと、民数記の16章に記されたコラたちの反逆の話です。神がお遣わしになったモーセに反逆したコラたちは、神の怒りに触れて、生きたまま大地に飲み込まれてしまいます。

 自然災害で生き埋めになるということは今でもあり得ないことではありませんが、それが特定の罪に対する神の怒りの結果であると断定できる出来事は、わたしの知る限り、現代では起こっていません。罪の結果、この世界が悲惨の状態に置かれているとは言えますが、ある人が犯した特定の罪の結果、その人に特定の不幸が襲ったと断定できることは一つもありません。少なくともわたしにはその様なお告げがあったことは一度もありませんし、わたしの知っている限りの牧師たちで、そのようなお告げを受けた人は一人もいません。

 しかし、だからと言って、聖書の時代も同じだったとは言うことができません。聖書の時代には神からの直接の啓示があった時代ですから、ある場合には出来事の意味が神によって特別に説明されました。自然現象の意味を人間が勝手に解釈したというのとは違います。

 もっとも、神の啓示がほんとうにあったのかどうか、そのことを証明する手立ては残念ながらありません。あの時代にその場所にいたとすれば、自分の目で確かめることができたかもしれません。しかし、今となってはその信憑性は信じるよりほかはありません。

 ところで、今の時代は聖書の時代のようには神からの直接の語りかけがない時代ですから、悲惨な出来事が起こるたびに、そのことが起こったのはだれかの罪の結果なのかどうか、かえって不安になってしまうと言われるかもしれません。
 しかし、この点については、イエス・キリストがおっしゃった二つの事柄が参考になります。
 一つは、ピラトが礼拝中のガリラヤ人を虐殺した悲惨な事件について、イエス・キリストがお語りになった言葉です。ルカ福音書13章でイエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

 イエス・キリストは、神からの特別な啓示がないのに、特定の罪と特定の悲惨な出来事とを結び付ける安易な考えかたを非難されました。むしろ、人はみな罪人であるので、神の前に真剣に悔い改める必要があることを説かれたのです。

 もう一つの例はヨハネ福音書9章に記された、ある目の不自由な人に対するイエス・キリストの言葉です。その当時は、体に障害があるのは、何か罪と関係があるのではないかと思われがちでした。
 弟子たちが「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねたのに対して、イエス・キリストはこうお答えになりました。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」

 ここでも、特定の罪と障害とを直接結びつける考え方をイエス・キリストは支持なさいません。

 そもそも、聖書の中に出てくる特定の災害や不幸な出来事で、特定の罪と結び付けて解説されるのは、ごくごく限られた事例にすぎません。むしろ、イエス・キリストがおっしゃるように、どんな罪であっても悔い改めて罪の赦しを求める必要があるのです。
 それと同時に、どんな不幸と思える出来事も特定の罪の結果であると安易に結び付けて考えてはいけないのです。

 さらに聖書には、キリストと結ばれた者に対する約束の言葉が記されています。ローマの信徒への手紙8章35節以下の言葉です。

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 聖書が書かれたのは、わたしたちを恐怖のどん底に陥れるためではありません。そうではなく、罪の悲惨さから解放されて、神の愛の中にしっかり留まることができるようになるためです。どうぞ、そのことを心にとめて聖書を読んでみてください。

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