聖書を開こう 2011年12月29日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 隣人のために生きる(ローマ15:1-6)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会という共同体は、キリストを信じるという信仰の点では一致していても、その共同体を構成する一人一人は決して一様な人たちではありません。年齢や性別や出身地の違いは勿論のこと、健康の度合いや才能、そして趣味や関心さえも異なる人たちの集まりです。同じ主を見上げているのですから、必然的に一致が保たれると安易に考えることは禁物です。
 町の教会が異端的な教理によって分裂するということはほとんどないことですが、むしろ些細な問題で意見が対立して、なかなか一つにまとまらないということはよくあることです。
 そうであればこそ、きょう取り上げようとしているパウロの言葉には心して耳を傾ける必要があります。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 15章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。

 前回まで学んできたローマの信徒への手紙14章では、ローマの教会の中で起こっている具体的な問題が取り上げられてきました。その具体的な問題とは、野菜だけを食べることが信仰的に正しいと考える人たちと、そうではなく、クリスチャンには何でも自由に食べることが許されていると考える人たちの問題でした。
 きょうの個所ではこうした対立にどう対処すべきか、という原則が、キリストを模範として述べられています。

 パウロは対立するグループの一方を「信仰の弱い人」とか、単に「弱い人」と呼んできましたが(14:1-2)、きょうの個所で初めて、自分を含めたもう一方のグループの立場を「強い者」と呼んでいます。それは、食べ物を自分の確信に従っていちいち選別しなければ安心できない人たちを「弱い人」と呼んだのに対して、もう一方のグループの人たちは、食べ物に関していちいち信仰的な良心に問わなくても、すべてが大丈夫だと確信している点で強いと言う意味でしょう。
 おそらく、野菜しか食べない人たちは、自分たちを信仰の弱い人とは呼んでいなかったでしょうし、何でも食べる人たちのことを「強い者」だとは思ってもいなかったでしょう。

 では、どちらの数が多かったかということを考えると、おそらく「強い者」と呼ばれるグループの方が教会の大多数を占めていたのだろうと思われます。そう言う意味でも、「強い者」と呼ばれる人たちの方が教会の優勢を占めるグループですから、強い立場であったとも言うことができるかもしれません。

 ただ、パウロの勧めの言葉は、どちらのグループが強い者たちで、どちらのグループが弱い者たちであるのか、それを厳密に決めなければならないという性質のものではありません。どんな観点からであるにしても、自分たちの方が強い者と思うのであれば、心して耳を傾けなければならない言葉です。
 「強い者」が持っている影響力は黙っていても大きく、集団に対して自分の思いを実現させる力を持っているものです。しかし、優勢な立場を利用して、自分の思いや主張を実現させることは、けっして教会での物事の進め方ではありません。
 そう言う意味では、きょう取り上げた個所に記されている「強い者」への言葉は、単に食べ物を巡る問題にだけ適用される言葉ではなく、教会の中で起こりうるあらゆる問題に対して指針となる言葉です。

 パウロは「強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と述べています。

 もちろん、パウロが今扱っている問題は、黒か白か、善か悪か、という問題ではありません。そう言う問題に関して言っているのではなく、良心の問題として、どちらの立場も取りうる自由のある問題についてです。そう言う問題に直面し、自分が強い者であると自負するのであれば、自分の考えを相手に押し付けてはならない、とパウロは考えているのです。むしろ、自分たちと違う考えをもった弱い人たちを、忍耐をもって受け止めることをパウロは求めています。
 「強くない者の弱さを担う」というのは、具体的には、その人たちの立場を忍耐して受け止めることです。教会の中での一致は、ときとして忍耐が必要です。自分が強いと思うのであれば、自分の立場について相手に我慢させるのではなく、相手を受け止める忍耐がいっそう要求されているのです。

 パウロはもう一つ大切なこととして、「自分の満足を求めるべきではない」ことを述べます。

 教会では主の御心が第一に求められることは言うまでもありません。しかし、周辺的な事柄になればなるほど、自分の趣味や趣向が大きく前面に出てきてしまいがちです。本質的な問題ではないからこそ、自由にできるという考えから、ついつい何のためらいも悪気もなく、自分の気に入った事柄を優先させようとしてしまうのです。まして自分の方が強いという自負があればあるほど、自分の考えや意見を通そうとしてしまいがちです。
 しかし、その時にこそ、自分のしようとしていることが、自分の満足のためではないか、吟味する必要があるのです。

 では、自分の満足のためではないというためには、どこに心を用いるべきなのでしょうか。パウロは二つのことを挙げています。第一にそれが隣人を喜ばせることであるかどうかという基準です。もちろんこれは、「自分を満足させる」ということに対して、「隣人を喜ばせる」ということが言われているのですから、当然のことといえば、当然のことです。

 しかし、パウロはそれに加えて、「善」と「互いの向上」という点を加えています。ただ、相手が喜ぶから、ということではなく、そのことが善となり徳を建て上げることになるのかどうか、その判断が求められているのです。

 パウロはこのことをキリストご自身をもって模範としています。

 「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」

 イエス・キリストは徹底して他者に仕えるお方でした。そのキリストを模範とし、キリストに倣ってて生きるときに、教会の一致がいっそう深められるのです。この一致のために、パウロは祈りをもって、この箇所を締めくくっています。

 「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」

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