聖書を開こう 2012年6月21日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: わたしたちは証人(使徒5:17-32)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 かつて復活された主イエス・キリストは、弟子たちにこうおっしゃいました。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」

 この言葉を聞かされた弟子たちは、その時には言葉の意味を実感できなかったかもしれません。聖霊が降るということも、復活のキリストの証人となるということも、どちらも経験したことがないことですから、無理もありません。
 しかし、すでに学んだように、弟子たちはその後、聖霊が自分たちの上に降ることを経験しました。そして、復活のキリストがお語りになった通り、証人としての務めを果たすようになりました。それも、以前なら逃げ出してしまうような困難な状況の中にあっても、ためらうことなくその務めを果たすようになりました。
 きょう取り上げる個所は、エルサレムで力強く復活のキリストを証しする使徒たちの姿を描いています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 5章17節〜32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。
 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 前回の個所では、使徒たちの手によって多くのしるしと不思議な業とが行われていたことを学びました。その結果、ますます多くの者が主を信じるようになる様子がそこには描かれていました。しかも、使徒たちが集まっていた場所は、神殿の境内にあるソロモンの回廊と呼ばれる場所でした。大祭司とその仲間のサドカイ派の人たちにとっては、まさに自分たちの庭先で、挑発的な集会を開いているとしか思えなかったのでしょう。今回の個所の出だしは、こう始まります。

 「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。」

 以前「美しい門」のところにいた足の不自由な男を癒したことで、ペトロとヨハネはユダヤ最高法院の尋問を受け、「今後、イエスの名によって語ってはならない」と厳重に命じられました。その命令に対する違反は、使徒たちを再逮捕する絶好の口実です。しかし、大祭司とその仲間のサドカイ派が、使徒たちを逮捕して公共の牢獄に留置したほんとうの理由は、命令違反というような、法的なものではありませんでした。むしろそれは私的な感情によるものでした。使徒言行録によれば、彼らの妬みが燃え上がったからです。
 もっとも、この場合の妬みというのは、使徒たちが民衆の間で動かしがたい支持を得始めたことに対する「嫉妬心」とも取れますが、しかし、この同じ言葉は「熱心」という意味でも使われますから、彼らとても、神に対する一途な思いで、使徒たちを逮捕せずにはおられなかったとも理解できなくはありません。

 いずれにしても、大祭司たちは今回もまた強硬な手段に出ました。使徒たちを捉えて、一晩牢獄に留置したのです。表向きは治安を維持するためとも言えますし、神を冒涜する者たちに対する取り調べのためとでも、何とでも言えたでしょう。二度も牢に閉じ込めれば、少しは懲りるだろうと考えたのかも知れません。

 ところが、今回、前回にない不思議なことが起こりました。夜中に主の天使が牢獄の扉をあけて、使徒たちを解放し、民衆たちに命の言葉を語るようにと告げたのです。

 ここでいう「主の天使」という言葉は、単に「主の使い」という言葉で、それがいわゆる天使なのか、それとも人間の使いなのか、どちらにも取れる言葉です。旧約聖書の中では「主の使い」は、あきらかに人間である場合もありました。使徒言行録はどちらであるのかを明らかにはしませんが、いずれにしても、その使いが人から遣わされたものではなく、主がお遣わしになったと言う意味で「主の使い」と呼んでいるのでしょう。それは使徒たちを逮捕して留置したのが単なる人間の使いにすぎないのに対して、使徒たちを助けたのは、主からの使いであることを明らかにするためです。

 使徒たちが助け出されたのは、単に牢獄から解放して自由になるためではありませんでした。「命の言葉」を語り続けるという大切な使命を託されてのことでした。使徒たちは復活のキリストによって主の証人として立てられましたが、彼らが語る言葉は、まさしくまことの命にかかわる言葉なのです。言いかえれば、罪によって滅びるべき人間を救いへと導く言葉です。その命の言葉を語るという使命を与えられて、使徒たちは牢獄から連れ出されました。

 さて、こうして大祭司とサドカイ派の人々のもくろみは砕かれ、翌日、最高法院に引っ張り出そうと牢に人を遣わすと、もはや牢はもぬけの殻となっていました。

 使徒たちはというと、これ幸いに遠くへと逃げて行ったのではありません。主の使いに命じられた通りに、神殿の境内で民衆たちにますます大胆に命の言葉を語りつづけました。見つかれば再び逮捕されることは分かり切ったことです。案の定、居場所を告げられて、最高法院にひっぱりだされます。

 なぜ、使徒たちは自分たちの命を省みず、語り続けたのでしょうか。ペトロはこう語ります。

 「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 自分たちが事実の証人であるという確信と、聖霊の証言が力を与えているからです。聖霊の助けのあるところで、もっとも人は大胆に主の言葉を語り続けることができるのです。

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