聖書を開こう 2012年11月29日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 異邦人に向かう福音宣教(使徒13:42-48)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 子供たちがまだ小さいころ、同じ本を何度も持ってきては、読んでほしいとせがんだものでした。ほとんど内容を暗記するくらい理解していても、それでもまた聞きたいと思うほど、その本には魅力があったのでしょう。
 パウロの説教を聴いたピシディアのアンティオキアの人たちも、パウロの話を聴いてまた次の安息日にも話を聴きたいと願ったとあります。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 13章42節〜48節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。
 『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
  あなたが、地の果てにまでも
  救いをもたらすために。』」
 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 前回まで、ピシディアのアンティオキアでなされたパウロの説教を二回にわたって学んできました。きょう取り上げた個所には、そのパウロの説教が聴衆たちにどんな影響を与えたのか、そして、パウロたちの福音宣教にとって、どんな決定的な変化をもたらすことになったのか、そのことが活き活きと描かれています。

 イエス・キリストこそイスラエルに約束された救い主であることを大胆に語ったパウロは、この十字架に架けられ、死んで葬られ、死者の中から甦られた救い主を信仰をもって受け入れるようにと聴衆たちに勧めました。

 使徒言行録はこの安息日になされた説教の実りを、まず二つの出来事で要約しています。

 一つは、次の安息日にも同じ話をしてほしいという願いを人々の心に起こしたということです。あとでも明らかになりますが、聴衆のすべてが同じ思いを抱いたというわけではありません。しかし、聴く者の心に確かな手ごたえを得たことは間違いのない事実です。
 神の恵みの言葉をまた聴きたいと願うこと自体、大変な心の変化です。このピシディアのアンティオキアの会堂で、これまで何人のゲストスピーカーが話をしたのか分かりませんが、これほどまでに強い願いを引き起こすほどインパクトのある話をした人はいなかったことでしょう。それも当然のことです。パウロが語った福音は、やがて遠い未来にやってくる救い主の話ではなく、すでに約束されたお方が到来し、信じさえすれば、誰にでも救いが約束されているという嬉しい知らせだからです。

 もう一つの実りは、集会が終わってからもなお、多くのユダヤ人や神をあがめる改宗者たちがパウロのあとについてきて、このことについて語り合う機会が与えられたということです。もちろん、その人たちのすべてが、好意的な意味でパウロたちの後を追ってきたというわけではなかったでしょう。しかし、良い意味でも悪い意味でも、パウロの話は人々を無関心のままで居させるような話ではなかったということです。何らかの応答を求められるような、そういうインパクトのある話だったのです。そして、聴いた者たちの多くの人が、もっと知りたいと思う疑問をパウロと論じ合ったのです。

 確かに、この一回の話を聴いて信仰に入った者の話は出てきませんが、しかし、確実に聴く者たちの心に変化をもたらしたことは疑いようもありません。

 さて、いよいよ次の安息日がやってきます。聴衆は減るどころか、前にもまして、パウロの話を聞こうと会堂に押し寄せてきます。使徒言行録は「ほとんど町中の人が」と記していますが、当然、町中の人々のほとんどが会堂に押し寄せてくれば、会堂に入り切れるはずもありません。多少の誇張はあるかもしれませんが、「ほとんど町中の人」という印象を与えるくらい大勢の人たちが会堂を埋め尽くしたのでしょう。

 しかし、ここにきてネガティブな反応がユダヤ人の中から起こります。この集まる大勢の群衆を見て、ユダヤ人は「ひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」とあります。
 その前の安息日の時には、パウロの説教のあと、パウロについて言って論じ合ったユダヤ人でしたが、今度は論じ合うこともせず、ただただののしって反対するばかりです。

 これを受けて立つパウロとバルナバは、とうとう「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言します。

 文字通りこのやりとりを受け取るとすれば、先ほどパウロたちの話を聞こうとして、集まってきた町中のほとんどの人たちというのは、残念ながらユダヤ人以外の異邦人たちであったようです。この前の安息日に語ったパウロの説教は、一週間後には異邦人とユダヤ人を峻別してしまう結果をもたらしてしまったということです。

 確かに、パウロは異邦人のための宣教者として神によって選び出された人物ですが、しかし、パウロを決定的に異邦人のための福音宣教者としたのは、このピシディアのアンティオキアでの出来事がきっかけでした。

 なるほど、この町のユダヤ人の共同体にとっては、今まで自分たちと礼拝を共にしてきた異邦人改宗者や、神を畏れる異邦人たちが、パウロの宣べ伝える福音にたなびいてしまうことは、面白くもなかったでしょうし、実際、会堂を維持する経済的な基盤を失うことにもなりかねません。妬みをおこす気持ちも分からないではありません。しかし、残念なことに、彼らはもはや知らずにイエスを拒むのではなく、福音を聞かされながら拒む者となってしまったということです。

 使徒言行録は、こうして妬みで福音に心を閉ざす者たちとは対照的に、福音を受け入れた弟子たちを描いて「喜びと聖霊に満たされていた」と表現しています。

 福音に心開くところに、聖霊と喜びとが心を満たすのです。

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