キリストへの時間 2013年5月12日(日)放送 キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 母の日

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 先週の日曜日はこどもの日でした。きょうは母の日です。我が国の「国民の祝日に関する法律」では、こどもの日は「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」とあります。母への感謝は、実はこどもの日にも謳われているのです。きょう5月の第2日曜日にも母の日として覚えられる母の存在は、それに値するだけの大きなものがあると思います。

 今でも思い出すのですが、子供たちがまだ小学生だったころ、学校から帰って来て、わたし一人が書斎にいるのを見つけると、必ず「誰もいないの」とよく尋ねたものでした。わたしがいるのですから、誰もいないわけはありません。しかし、子供が捜しているのは、父であるわたしではなく、母の存在なのです。母親が家にいれば、決してわたしのところへきたりはしません。それほどに母の存在は子供たちにとって大きいのだと、思い知らされたものでした。

 これは、わたし自身の名誉のために言いますが、わたしが特別に親業失格者であったからではないと信じたいものです。ただ、母親が子供に払う犠牲は、父親のそれとは本質的に違うように思います。わたしは先ほど「子供に払う犠牲」と言いましたが、おそらく、「犠牲」という感覚は父親の感覚ではないかと思います。母親は献身的に子供の面倒をみますから、それを犠牲とも感じていないのではないかとさえ思えます。そうであればこそ、子供から絶大な信頼を寄せられるのでしょう。

 もっとも、これには違った見方もあるかもしれません。子供が母親に絶大な信頼を寄せるのは、母親の献身的な面倒見のよさのためではなく、単に一緒にいる時間が誰よりも長いので、子供にとっては母がすべてのように思えるだけのことかもしれません。

 ところで、聖書の中にも様々な母が登場します。どの母も人間ですから、欠けた所はあったでしょう。しかし、それぞれの母に、母親らしい特徴が描かれています。その中でも、きょうはイエス・キリストの母マリアについてお話したいと思います。

 聖母マリアといえば、ヨーロッパの長いキリスト教の伝統の中では、崇敬されるほどの地位を与えられています。しかし、きょう取り上げようとしているのは、そういう崇拝される母マリアのことではありません。

 マリアが母親となったのは、おそらく当時の平均的なユダヤ人と同じ年頃のころだったと思われます。10代の後半、どんなに遅くとも20歳まえには母となっていたと思われます。このマリアについて、ルカによる福音書は、イエスが12歳になった頃のことを記しています。

 過越しのお祭りのために少年イエスを連れてエルサレムにやってきたとき、イエスの行方が分からなくなるということがありました。そこに記されたマリアの言葉は、どこにでもいる母親の言葉です。
 「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(ルカ2:48)

 しかし、聖書が記しているマリアの様子は、ただ心配して、お小言を言う姿だけではありません。ルカによる福音書は「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2:51)と記して、このエピソードを締めくくっています。俗に「母の愛は海よりも深い」と言いますが、すべてのことを心に納めておく、その見守る姿に、母マリアのわが子イエスへの愛の深さを思います。母親というのは弱くもどかしい存在かもしれません。しかし、すべてを心に納めて見守る愛は、母特有のものではないかと思います。

コントローラ


自動再生されない方はこちらから再生(mp3形式)
Copyright (C) 2013 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.