キリストへの時間 2013年11月17日(日)放送 キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 主イエスと出会った人々-中風を患う人とその友人たちの場合-

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 福音書の中にはイエス・キリストがなさった数々の奇跡が記されています。奇跡というのは、あり得ない、信じがたい出来事です。あり得ないことだから信じがたい、と言った方が正確かもしれません。まことにもってその通りです。ですから、キリストの奇跡の話を読んで、信じがたいという反応が返ってきたとしても、それほど驚くにはあたりません。しかし、信じがたいというだけで、ことを終わりにしてしまおうとは思いません。

 そもそも、あり得る話で、信じられる話にどんな意味があるのだろうかと思います。たとえば、村にならず者がいたとします。暴力や脅しで金品を巻き上げては、村人を困らせています。村人は仕返しが怖くて、誰もこのならず者に立ち向かおうとはしません。ところが勇敢にも、ある男がこのならず者にその間違いをこんこんと説き続けます。しかし、口で言うだけではちっとも反省しません。仕方がないので、武力でこのならず者を抑え込むと、不承不承このならず者は村人に手を出さなくなりました。
 さて、この話はあり得る話ですし、信じられる話です。では、この勇敢な男を自分の救い主と信じるかと言われれば、まったく意味のない話です。あまりにもどこにでもありそうな話の上に、救いの範囲が現実的で地上的すぎるからです。
 あり得ないから信じがたいという反応はもっともです。しかし、あり得なくて信じがたいからこそ、信じるに値するとも言えるのです。

 さて、前振りが長くなってしまいましたが、きょう取り上げようとしている人々は、あり得ないようなことを期待して、キリストのもとへやってきた人たちです。中風を患った男とその人を運ぶ四人の男たちです。素朴な信仰心を持った人たちと言ってしまえばそれまでです。
 しかし、そう簡単にその人たちのことを分類してしまう前に、もう少しこの人たちのことを考えてみましょう。この中風の患者は、一人ではキリストのところへ来ることはできませんでした。それほどに症状が重かったということです。誰かが手助けしなければ、これから起こるキリストとの出会いは実現しません。この中風を患う男が、キリストのもとに行って癒されたいとどれほど願っても、それに同調してくれる人がいなければ、話は始まりません。癒されたいと願う人、その人の願いをぜひ叶えてあげたいと思う人たちの気持ちが一つとなって話が展開します。愛のあるところに奇跡が必ず起こるとは言いませんが、愛のないところに奇跡を期待することはできなかったでしょう。この人たちは素朴な信仰の人たちである前に、互いに慈しみ合う人たちだったのです。

 こうして運ばれてきた中風の男を前に、イエス・キリストは「この人たちの信仰を見て」奇跡の業を行ったとあります。このうちの誰か一人の信仰ではありません。この人たちの信仰をキリストはご覧になったのです。当たり前ですが、だれか一人でも反対すれば、キリストの前にこの患者は運ばれてくることはなかったのですから、この人たち全員の信仰が関わっているのです。

 しかし、この話を勘違いしてはいけません。キリストがこの人たちの信仰深さに感動して、そのご褒美に救いの業を行ったのではありません。キリストがご覧になったのは、恵みの業を受け取る信仰です。信仰というのは、言ってみれば器のようなものです。それによって神の恵みを受け取ることができるのです。器がなければ受け取ることはできません。器があってもそれを使わなければ、やはり神の恵みを受け取ることができません。
 キリストの奇跡の御業は、あり得ない信じがたい話です。ただ信仰だけがその恵みを理解し、受け取ることができるのです。

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