聖書を開こう 2014年3月27日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 命の主であるイエス(ヨハネ4:43-54)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 平均寿命が長くなった現代でも、死そのものを克服することができないのは言うまでもありません。そればかりか、すべての人の命を平均寿命まで生かすことすらかないません。不慮の事故や災害で若くして命を落とす人がいます。病気のために早く世を去る人もいます。そうであるからこそ、人は人生について深く思いをめぐらしてきました。
 また、命を人間の手でコントロールすることができない現実があるからこそ、受け入れがたい死に直面したときには、宗教に救いを求めてきたのも事実です。
 さて、きょう登場するのは、死に瀕した息子を抱えたある父親の話です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 4章43節〜54節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

 祭りのためにエルサレムに上ったイエス・キリストは、祭りが終わった後、サマリヤを通ってガリラヤに戻りました。そして、再びカナに行かれたのが、きょう取り上げようとしている場面です。
 このカナという場所は、ヨハネ福音書の2章で取り上げた、キリストが最初の奇跡を行った場所でした。そのとき、このカナで行われた結婚の宴で、キリストは水をぶどう酒に変えるという不思議なしるしを行いました。このカナという場所はそういう、謂われのある場所です。

 イエス・キリストがカナに来ているという噂を聞きつけて、カファルナウムから20数キロの距離をカナまでやってきたのは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに仕える役人でした。そんな距離をわざわざやって来るには理由がありました。それは、その役人の息子が病気で死にかかっていたからです。
 病気は人を選んではくれません。役人であろうが、相手が子供であろうが襲ってきます。しかも、重い病気のために命に危険が迫って来ています。

 息子のことを誰よりも心配したのは、その子の父親でした。もちろん、家族みんなが心配したことは言うまでもないでしょう。しかし、男で体力もあり、家長としての責任もある彼は、誰かを使いに出すのではなく、自分の足でイエス・キリストのもとへ助けを求めに向かいます。

 しかし、いざキリストに会って助けを求めると、その返事は不可解なものでした。

 「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」

 それは、見なければ信じない人の心の頑なさを指摘した言葉ともとれます。しかし、また、そのような頑なな心を持つ人間に、信じることができるようにと、しるしを行うことを約束してくださった言葉とも受け取れます。

 このキリストの言葉の真意がどうあれ、父親は一歩も退こうとはしません。ただ、キリストの憐れみをひたすら願うばかりです。

 「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」

 一刻を争う事態に、言い争っている時間などありません。ただただ一緒に来てくださることを願うほかありません。

 しかし、キリストはさらにおっしゃいます。

 「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」

 「帰りなさい」という言葉だけが耳に残れば、門前払いをされたと感じるでしょう。「あなたの息子は生きる」などというのは、その場限りの体の良い言い訳に過ぎない…そうとも感じられます。

 しかし、この役人は、「あなたの息子は生きる」とおっしゃるイエス・キリストの言葉を、真正面からしっかりと受け止めました。この言葉を確かな言葉と信じたのです。

 そう言われて引き返す帰り道、家からやってきた役人の家の僕たちに出会って、子供の無事を知らされます。しかも、子供が危機を乗り越えた時刻は、まさにキリストから言葉をいただいた時刻と一致していたのです。

 さて、この出来事から学ぶべきことは、少なくとも二つあります。一つはキリストの奇跡は、信じる信仰によってだけ受け取ることができるということです。どんなに人を驚かせるような業をキリストが行ったとしても、誰もがそれを神からの不思議なしるしと受け止めるとは限らないのです。信仰だけがそれを理解し、うけとめることが出来るようにするのです。

 二つ目はもっと大切なことです。この出来事全体は、確かに役人の信仰にも注目していますが、それ以上に、奇跡を行うキリストに目を注いでいます。キリストは命を与えることができるお方として描かれています。しかも、その場で手を触れて何かをする、というのではなく、姿が見えなくても、その場に居合わせなくても、命を与えることができるお方なのです。
 すでに、この福音書では、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記しています。この奇跡はその言葉が信じるに値するものであることを証しするしるしです。

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