聖書を開こう 2014年4月24日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 御子イエス・キリストを証しするもの(ヨハネ5:31-40)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読む動機には、いろいろあると思います。ある人は教養のために、ある人は生きるヒントを得るために、さらにまた別の人は、中近東の歴史を知るために聖書を手にします。

 わたしが16歳のときに初めて聖書を読んだのは、曜日の名称の由来が聖書にあると思って、たまたま本棚にあった聖書を手にしたのがきっかけでした。そのうち、そこに書かれていることそのものに興味を覚えて、とにかくそこに書かれていることを知ろうと夢中になって読みました。ところがイエス・キリストを知ろうとして聖書を読んだのは、それからだいぶ経ってからのことでした。

 きょうこれから取り上げようとしている個所には、聖書が何のために書かれたのか、またどう読むべきなのか、イエス・キリストのお考えが記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 5章31節〜40節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

 前回は、父なる神と御子イエス・キリストとの関係を、イエス・キリストご自身の証言によって学びました。イエス・キリストがその様なことをお話しになったのは、神をご自分の父と呼んで神を冒涜したとして、イエス・キリストを殺害しようとする人々がいたからです。

 しかし、このような証言が、イエス・キリストを非難する人たちにとってはまったくの自己証言にすぎないことは分かり切ったことでした。というのも、ユダヤ人たちはモーセの律法によって、裁判での証言は二人、または三人の証言がなければ、事柄の真理は立証されないと定められていたからです(申命記19:15)。
 つまり、イエス・キリストがどんなにご自分が神の子であり、ご自分の権威が父なる神から委ねられていると、ご自分で証言したとしても、それは何かを立証するには不十分だということです。確かにそれには一理あります。

 そこで、イエス・キリストはその様な反論を予想して、ご自分を証しするものが、他に三つあることを挙げています。

 その一つは、洗礼者ヨハネの証言です。
 ヨハネによる福音書は冒頭におかれたプロローグで、洗礼者ヨハネを「証しをするために来た」人物として紹介しています(ヨハネ1:6)。その具体的な証しは、1章19節以下に詳しく記されている通りです。洗礼者ヨハネはメシアの先触れとして、イエス・キリストに先立って遣わされ、イエス・キリストを神から遣わされた「世の罪を取り除く神の小羊」として証言してきました。事実、このヨハネの証言を通して、イエス・キリストのもとへとやってきて、弟子となった人々がいました。
 もし、イエスを非難する人々がこの洗礼者ヨハネの証しを受け入れていれば、イエス・キリストのおっしゃることをも理解することができたでしょう。

 けれども、イエス・キリストは、このヨハネがなした証言にまさる証言があるとおっしゃいます。それはイエス・キリストが行った業そのものが、ご自分が父から遣わされた者であること証言しているとおっしゃいます。
 既に、イエス・キリストは数々の御業を行ってきました。その一つはカナの婚礼で行った、水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。このしるしを通してイエスの栄光を見た弟子たちは、イエス・キリストを信じたと記されています(ヨハネ2:11)。
 また、役人の息子の病をお癒しになったとき、父親も家族もこぞってイエスを信じたとあります(ヨハネ4:53)。イエス・キリストが行うしるしそのものが、ご自分が神から遣わされたものであることを雄弁に語っているのです。
 今、ユダヤ人たちとの衝突のきっかけとなった、ベトザタ池のほとりにいた病気の男の癒しも、本来ならば、キリストが神から遣わされたメシアであることを雄弁に物語るしるしです。

 そして三つ目の証言は、キリストをお遣わしになった父なる神ご自身の証言です。具体的には、イスラエルの歴史と預言者を通して、神がイスラエルに示してきた事柄です。それは、ユダヤ人たちが手にしている聖書にはっきりとしるされています。
 では、それらの事柄は、何を物語っているのでしょうか。イエス・キリストはおっしゃいます。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」

 イエス・キリストによれば、ユダヤ人たちは、神の言葉である聖書の中に永遠の命があると思って、聖書を研究してきました。しかし、キリストご自身の指摘するところによれば、ユダヤ人が手にしている聖書は、永遠の命をもっておられるお方、イエス・キリストを証言しているというのです。

 キリストを拒むユダヤ人指導者たちは、キリストの証言を拒んでいるのではなく、既に、神が聖書を通して語ってきた証言を拒んでいるのです。神が聖書を通して語っていることは理解しているのに、キリストを拒んでいる、というのではありません。そうではなく、聖書の読み方そのものを間違えているのです。神の言葉に正しく聞かないために、キリストをも理解できないのです。

 聖書には色々な読み方があるでしょう。しかし、イエス・キリストが、神から遣わされた神の子、救い主であるという証言をそこに聞くときに、永遠の命への道を見いだすことができるのです。

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