聖書を開こう 2014年5月15日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: わたしだ。恐れるな(ヨハネ6:16-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 自分の身に危険が迫ると人間は恐怖を覚えます。その危険が具体的であればあるほど、より強く恐怖を感じます。しかしまた、未知のものに対しても、人間は恐怖を感じることがあります。今まで見たことがないもの、体験したことがない事態に直面したときに強い不安や恐怖を感じます。それは、その未知のものがもたらす最悪の事態を本能的に想定するからでしょう。
 きょうこれから取り上げる箇所には、弟子たちの恐怖心とそれを静めるイエス・キリストの姿が描かれます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 6章16節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。25ないし30スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

 きょう取り上げた個所は、五千人の人々に食べ物を分け与えた奇跡に続く話です。ヨハネによる福音書も、マタイやマルコによる福音書と同じように、五千人への給食の話に続いて、イエスが湖の上を歩いて舟にいる弟子たちのところへやってきたことを記しています。この二つの出来事が、切り放すことができないかのような扱いです。

 この出来事を記した三つの福音書の記事には、細かな点では違いがあります。しかし、共通していることがらが五つあります。そのひとつは、弟子たちだけが舟に乗り、先に目的地に向かったという点。その二は、強風のために湖が荒れたということ。その三は、弟子たちのところへ、湖の上を歩いてイエス・キリストが近づいてこられたという点。第四に、その姿を見た弟子たちに恐怖が走ったという点。そして第五には、「安心せよ、わたしだ」とイエスが弟子たちに声をかける点です。

 この記事を扱う三つの福音書の中で、ヨハネによる福音書がもっとも出来事を簡単に短く扱っています。ほとんどあらすじだけといってもよいくらいです。
 ほかの福音書のように、逆風に行く手を阻まれる弟子たちの様子を描くこともなければ、水の上を歩くイエスを見て、幽霊だと勘違いする弟子たちの姿も描かれません。また、どれくらいたってからイエスが弟子たちのもとにやってきたのか、時間の経過を記す言葉も見あたりません。

 そういう意味では、一見、この個所は、それ自体にはあまり大きな意味を持たない出来事のように思われがちです。
 実際、マタイによる福音書では、この出来事を体験した弟子たちの口から「本当に。あなたは神の子です」という信仰告白の言葉が飛び出します。マルコ福音書では、弟子たちの信仰告白の言葉は記されませんが、その代わりに、嵐を沈めるイエス・キリストに驚く弟子たちのことを、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と記しています。
 それに対して、ヨハネによる福音書には、出来事の意義を語る言葉が何も記されていません。ただ、ひたすら客観的に出来事を記しているようにしか見えません。

 確かに、この記事に対するヨハネ福音書の扱いだけをみると、そう感じられるかもしれません。けれども、ヨハネ福音書全体からこの記事を眺めてみると、ここにはこの出来事を通してヨハネ福音書が語ろうとしている重要なテーマが浮かび上がってきます。

 それは、恐れを抱く弟子たちに語りかけるイエス・キリストの言葉に鍵があります。

 「わたしだ。恐れることはない。」

 確かに、この言葉自体は、三つの福音書に共通した言葉です。そういう意味では、ヨハネによる福音書が何か特別なことを記しているというわけではありません。しかし、「わたしだ」というこの言葉、ギリシア語では「エゴー エイミ」と記されるこの言い回しは、このヨハネ福音書全体の中で特別な意味をもって扱われる表現です。

 実はこの「エゴー エイミ」という言葉は、旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳聖書の、出エジプト記3章14節に登場する言葉です。それは主なる神が、ご自分の名をモーセに知らせる場面です。

 「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)

 もちろん「エゴー エイミ」という表現自体には特別な意味があるわけではありません。ここで翻訳されているとおり「わたしだ」「わたしである」という意味しかありません。

 けれども、このヨハネ福音書は、のちにこの言葉を特別な意味で使っています。たとえば8章24節でイエス・キリストはこうおっしゃいます。

 「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 「「『わたしはある』ということを信じないならば」というのは、つまり、「『エゴー エイミ』ということを信じないならば」という表現です。これは明らかに出エジプト記で、主なる神がご自身を自己紹介されるときに使われた表現を思い起こさせます。

 同じように8章28節でもこうおっしゃっています。

 「「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』(つまり「エゴー エイミ」)ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」

 さらには、最後の晩餐の席上でもイエス・キリストはおっしゃいます(ヨハネ13:19)

 「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』(つまり「エゴー エイミ」)ということを、あなたがたが信じるようになるためである」

 マタイによる福音書では、この湖の上を歩かれ、嵐を静めるイエス・キリストのことを弟子たちが「本当に、あなたは神の子です」と告白していますが、それと同じように、ヨハネ福音書では、湖の上を歩いて弟子たちに近づかれるイエス・キリストを主なる神であるお方、「エゴー エイミ」とご自分を名乗られるお方として描いているのです。

 それは、イエス・キリストを捕らえて自分たちの王様としようとした民衆たちのキリスト理解とは、まったく異なる救い主のまことの姿と言うことができます。

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