聖書を開こう 2015年5月21日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 世があなたがたを憎むとき(ヨハネ15:18-27)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 迫害という言葉を聞くと、ローマ時代のクリスチャンたちの殉教を思い浮かべるでしょうか。あるいは、日本のキリシタンたちが受けた迫害を思い浮かべるでしょうか。どちらにしても、あんなにひどい迫害の時代は過去のものという思いがわたしたちのうちにはあるかもしれません。ところが、迫害されているクリスチャンを支援する団体の調べでは、この百年ほどたくさんのクリスチャンが迫害され、大量に殺されている時代は過去にないということだそうです。世界のどこかで、今もなお、信仰のゆえに自由を奪われ、命さえも奪われているクリスチャンたちが、たくさんいるということは、ほんとうに驚きです。深い憂いを感じます。

 そのような事態がやってくることを驚き怪しんではならないと、あらかじめ告げてくださっているイエス・キリストのお言葉に改めて耳を傾けて行きたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 15章18節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 きょうの個所には、起こってほしくいない恐ろしいことが告げられています。読んでいて、怖い気持ちになったり、憂鬱な気持ちになったりするかもしれません。この言葉を最初に聞いた弟子たちは、いったいどんな気持ちでこれらの言葉を聞いたことでしょう。

 ただ、弟子たちが最初にこの言葉を聞かされた時の気持ちがどんなものであれ、少なくとも、その後、イエス・キリストのお言葉の通り、実際に迫害に苦しんだ弟子たちにとっては、これらのキリストの言葉が、どれほど励みになり、慰めになっただろうかと想像します。

 そもそも、イエス・キリストがこれらの言葉をお語りになったのは、未知の恐怖に弟子たちをさらすためではありません。そうではなく、やがて起こる事態に直面したときに、弟子たちがその事態を正しく理解するようにと、キリストはあらかじめこのことをお語り下さいました。それは何よりも、事態に直面することになる弟子たちを励まし、力づけるためでした。そのことを念頭に置きながら、今日の個所を見ていきたいと思います。

 まず、クリスチャンに対する迫害がどうして避けられないのか、その理由についてお語りになるイエス・キリストの言葉を見てみましょう。

 「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」

 クリスチャンたちが世から選び出され、この世に住んでいながら、しかし、この世に属する者ではないというところに、迫害を受ける第一の理由があるとイエス・キリストはおっしゃっています。つまり、この性質、「世から選び出されて、この世に属していない」というクリスチャンの性質が、迫害を避けて通ることができないものにしているということです。クリスチャンとなって、この世から選び出されているということの中に、すでに迫害を受ける原因が潜んでいます。ぶどうの枝として、キリストの愛の内にしっかりと結び付けられれば、結び付けられるほど、世の憎しみをかってしまうのです。

 もっとも、そうだからと言って、迫害を受けないクリスチャンがいれば、その人は偽物だということではありません。キリストがおっしゃりたいポイントは、クリスチャンであるということの中に、すでに世から排斥される要因が潜んでいるということです。ですから、この世から憎まれるとしても、それを驚く必要はないということです。

 この世がクリスチャンたちを迫害する第二の理由は、イエス・キリストをお遣わしになった方をこの世が知ろうとも認めようともしない、と言うことです。ただ単に知識がないというのではありません。イエスの言葉に耳を傾け、その御業を見て、なお、心を開こうとしないからです。

 けれども、キリストは、世があなた方を憎むとき、あなたがたを憎むよりも先にわたしを憎んでいたことを思い出すようにおっしゃいます。この勧めには二つのことが含まれています。

 第一に迫害を受けることを通して、自分たちがキリストに属する者であることを思い起こすようにということです。キリストの受けた苦しみの道に続く者とされている、そういう恵みを受けているのだ、ということを思い起こす機会としなさいということなのです。迫害を受けるとき、自分よりも先に迫害を受けられたキリストの道に、自分も立っていることを知ることができるのです

 第二に、自分たちが世から憎まれるという経験を通して、キリストの受けられた苦難を思い起こす、そういう恵みにあずかっているということです。迫害を受けるたびに、わたしたちの罪のために十字架で苦しんでくださったキリストの苦難を思い起こすことができます。

 迫害の際にこうむる痛みや苦しみだけに目を留めていたとするなら、誰もそれに耐えることはできません。けれども、迫害の時に受ける恵みに目を留めるとき、迫害に打ち勝つ勇気と希望が与えられます。実際、迫害を受けた多くのクリスチャンたちが、その恵みに心を留めて迫害を乗り越えて行く事が出来たのです。

 最後に、もう一つだけ大切なことをお話します。イエス・キリストは、「世はあなたたちを憎む」といいましたが、「あなたたちも世を憎みなさい」とはおっしゃいませんでした。むしろ、世に対して神の愛を証し続けること、このことが求められています。

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