聖書を開こう 2015年7月2日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 彼らを守ってください(ヨハネ17:6-19)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 一日も早くイエス様のもとへ行きたい、そう思ったことがある人は少なくないと思います。苦しいことがあったり、この世の痛ましい出来事を目の当たりにするとき、ふとそういう思いが心の中をよぎるということがあっても不思議ではありません。
 あのパウロでさえ、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と述べています(フィリピ1:23)。
 もちろんそれはただの逃避的な思いというのとは違うでしょう。キリストのもとへ行きたいという願いの裏には、いつも、この世で生きている意味を深く考えているということがあるのだと思います。辛いことや苦しいこと、理不尽とも思えることが続くこの世に、自分が置かれていることの意味は何なのだろう、こういう問いかけが根底にあるのだと思います。

 きょうは、この世に残る弟子たちのために、主イエス・キリストが捧げた祈りの言葉から学びたいと思います。


 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 17章6節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

 少し長い個所でしたが、この祈りの中心点は、この世に残る弟子たちが、御名によって守られるようにという言葉に尽きます。

 まず、御名によって守られるべき弟子たちのことについて、彼らがどういう存在なのか、イエス・キリストは、祈りの冒頭部分で詳しく述べています。

 まず第一に彼らは父なる神が世から選び出してキリストに与えた者たちであると記されています。この「父がキリストにお与えになった人」という言葉は、この祈りの中で繰り返し出てきます。6節、9節、24節と三回繰り返されます。実はこの「父が御子であるキリストに与えた人」というのは、この福音書の初めの方にも二度出て来る言葉です。

 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」。6章37節の言葉です。

 「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」。同じく6章38節

 キリストの目から見れば、みもとに集まった弟子たちは父なる神から与えられたもの、委ねられたものたちなのです。キリストは父から授かった者たちとして、彼ら弟子たちのためにとりなしの祈りを捧げているのです。

 その彼らは、ただキリストのものとなったというばかりではなく、キリストが語る言葉によって、キリストが神のもとから遣わされて来たことを信じるようになった者たちであるとも記されています。キリストはこの弟子たちを地上に残して、今、父のもとへ帰ろうとしています。キリストが地上に残しておかれる弟子たちは、この世で、父なる神と御子キリストとの関係を知る貴重な存在です。彼らだけが地上でキリストの奥義を知る者たちなのです。

 キリストの祈りは、そういう彼らが守られるようにという願いです。けれども、キリストはこうはっきりと述べていらっしゃいます。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(17:15)

 キリストの願いは、弟子たちを地上から引き上げてしまうことでもなく、悪い者たちを根絶やしにすることでもありません。

 ここで思うことは、キリストの弟子として生きる者たちは、キリストによってこの世におかれているのだと言うことです。父からキリストに与えられた者として、父なる神と子であるキリストとを知る者として、この世に生きることがキリストのみ心なのです。この世で生きるクリスチャンは、ただ辛くて苦しい意味のない人生をこの世で過ごすのではありません。むしろ、キリストは彼らを取り去らないで、この世に積極的に残していらっしゃるのです。そうであるからこそ、キリストは地上に生きる弟子たちのために、彼らが悪しき者から守られるようにと積極的に祈っていらっしゃるのです。

 そのように守られることによって、「わたしたちのように、彼らも一つとなる」とキリストはおっしゃいます。

 最後の晩餐の席上でキリストは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とおっしゃって、互いに愛し合うことをお勧めになりました。弟子たちが一つとなるということは、互いに愛し合うことを通して実現されることです。言いかえれば、彼らが守られるとは、この相互愛の中に弟子たちがとどまるということにほかなりません。その時、彼らがイエスの弟子であることを、この世の者たちが知るようになり、この世の勢力に対抗しうる者となることが出きるのです。

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