聖書を開こう 2015年8月6日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 何故イエスを裁くのか(ヨハネ18:28-32)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 新約聖書の中にある四つの福音書が、その中心的な出来事として書き綴っているのは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。今、わたしたちはヨハネ福音書に記されたイエス・キリストの裁判記事を学んでいます。ここのところは、何度読んでも、どうしてこんなにもあっけなく有罪の判決が出てしまうのか、不思議に思えるほど、いい加減な裁判です。

 そのいい加減さは、ただ単に、古代の裁判制度が未発達であったという理由からだけでは説明がつかないものです。どんなに整備された近代の裁判制度であったとしても、政治的な事件に絡む裁判から不公平さというものを完全に取り除くことは難しいのではないかと思います。結局はそれを運用する人間自身のしがらみがそこに深くかかわっているからです。

 イエス・キリストの裁判記事を読んでいて思うことは、すでに出ている結論に向かって、人々ががむしゃらに動いているということです。そういう人間の罪深さというものを読み取ることが出来ると思います。この裁判は、決して裁判の審理を通して真実を明らかにしようとして開かれている裁判ではありません。どうしたいかという結論が既に定まっている裁判です。少なくとも訴え出たユダヤ人の側にはそういった態度が明らかでした。

 しかし、確かに、裁判記事だけに目を留めていると、そこには人間のやり方の汚さに目が行ってしまいますが、ヨハネ福音書を読むときに大切なことは、この事が起こったのは、決して人間の思惑によるものだけではないということなのです。計り知ることの出来ない神の深いご計画がそこにあったということ、そのことを抜きにしてキリストの受難について語ることはできません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 18章28節〜32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。

 イエスが捕らえられた時期は、丁度過越祭の行なわれる季節でした。それは過越祭を祝うために大勢のユダヤ人たちが、各地からエルサレムに集まって、民族的に熱狂しやすい時期でした。それはエルサレムの警備に当っているローマの軍隊にとっても、また、ユダヤ人指導者たちにとっても、過敏なくらいに神経を尖らせている時期でもありました。

 さて、イエス・キリストが逮捕されたのは夜の出来事でした。夜中にもかかわらず、ユダヤ人たちによって予備的な審問がなされました。ユダヤ人たちのしきたりによれば、夜を徹して裁判を行なうことはいけないこととされていました。それで、大祭司のもとでなされたことは、予備的な審問に過ぎなかったと言われています。もっともそれがしきたりに反した正式な裁判であったとすれば、それはそれで、異例の出来事ということができるでしょう。先ほどお読みした個所には、総督ピラトのもとへと連れて行かれたのは、明け方のことであったといわれていますから、半日もたたないうちに事を処理してしまおうする、ユダヤ人指導者の焦りがそこには表れています。ユダヤ人指導者たちが、イエスを亡き者にしようと計画を立てたことは、すでに、11章47節以下のところに記されている通りです。彼らには、イエスの活動を放っておけば「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(11章48節)という危惧の念があったのです。

 こんな邪悪な考えに満ちた彼らでしたが、自分たちの宗教的な清さを守るということに関しては、どんな場合にも潔癖さを保とうとしています。過越の食事を汚さないために、ユダヤ人指導者たちは、ローマ人である総督ピラトの官邸には入ろうとしなかったと記されています。

 そこにもまた、彼らの持っている宗教的な歪みを見るような気がします。罪のない人間を殺そうとする計画それ事自体が、十分、神のみ前に良からぬ計略であるにもかかわらず、そのような計画を立てることが自分自身を汚していることにまったく気がついていないのです。

 悪い考えを抱きながら、形式的には神のみ前に清さを保とうとしている彼らの行動は滑稽とさえ映ります。

 どういう罪状で訴え出ているのか、というピラトの質問に対するユダヤ人指導者の答えも、おおよそ、まともとは思えない答えです。

 「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」

 彼らの言っていることは本末が転倒しています。総督の手に引き渡したという事実が、その人に罪があるということを語っているという論理がまかり通るとすれば、誰のことだって罪人に仕立て上げてしまうことができるはずです。もはや、目的を遂行するために、途中の過程はどうでもよいことになっています。

 ピラトにとって、そのような事件にかかわって自分の名声を傷つけることは、望ましいことではなかったはずです。というよりも、わざわざユダヤ人の訴えを聞いてやる必要もないと考えたのでしょう。ピラトは「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と命じています。しかし、それに食い下がって反論するユダヤ人指導者たちの言い方が振るっています。彼らは即座に答えました。「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」

 確かに、当時のユダヤ人たちには死刑を執行する権限はありませんでした。もっとも、そう言っている彼ら自身、後にクリスチャンであるステファノを処刑してしまいます(使徒7章57節以下)。つまり、ローマの法を破ろうと思えばいつでも破る事が出来たはずなのに、ここでは、ローマの法律を守る従順な自分たちを演じているのです。

 ここまで、人間の罪深さを描いてきたヨハネ福音書は、しかし、このユダヤ人たちの発言について、こう記しています。

 「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」

 イエスの十字架の出来事は、歴史的な事件として様々な興味をもって描かれることでしょう。しかし、神のご計画の成就として捉えるときにだけ、その意義を正しく知ることが出来るのです。

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